
19歳で体験した
初めての代表合宿
――1998年の2月にアデレード(オーストラリア)で行われた代表合宿に招集されました。ワールドカップイヤー始動となる合宿。メンバー選考も大詰めの時期だったわけですが、それをどんなふうに受けとめていたのでしょうか?
「え、なんで俺が? って思ったよ。プロ1年目が終わったばかりで、2年目のシーズンが始まる直前でしょ? あの頃、俺にはまだ日本代表なんてヤ全然ユっていう感じだった。別にワールドカップのメンバーに入ろうとか、22人のメンバーに残ってやろうというような気持ちもなかった。
当然最終メンバーには残れないのはわかっていたけど、日本代表としてやれる機会をもらったんだから、それはいい経験になると考えた。そこで代表がどういうものなのかを知ることができるし。そしてそのレベルに近づけるように準備して、3月から始まるJリーグ2年目のシーズンやチームでの練習に活かせればいいという感じだったんだよね。
合宿を前に、(岡田武史代表)監督から『80〜90%のコンディションで集まってくれ』というメッセージがあったから、俺はできるだけコンディションを整えて行った。まあ、初代表ということもあって、ガーッと上げて、100%くらいの状態で行ったのね。でも、他の選手のコンディションは60%くらいで、あまり動けていなかったから合宿はフィジカル練習を中心にやるっていうことになった。
いきなり砂浜でフィジカルトレーニングが始まった。ジャンプとかそういうのね。今までそんなのはやったことがなかったから、俺は慣れてない。しかも周りの選手に後れを取っちゃいけないと思って全力でやった。そしたら、プチッて肉離れになってしまった」
――初めての招集だからという意気込みが裏目に出た?
「どうなんだろう。もちろんその頃の俺のレベルじゃ、俺的にはフィジカルが100%の状態であっても、6割くらいの他の代表選手と同じくらいか、それよりも下のレベルだった。練習もホントにキツかったしね。結局4〜5日しか一緒にやれなかった。でも、みんな上手いんだなぁってことがわかった」
――プロ1年目でも技術的にはJリーグで通用するという手ごたえがあったはず。日本代表ではそういう感触はありましたか?
「うーん、ないね。あ、ひとつある。1対1でのドリブルの練習があって、俺ね、これすごいよ、全勝したの。あ、俺いけると思った。でも、やっぱり走ったり、パス回しとかってなるとついていけない。間近でプレーを見て、『北澤(豪)さんってこんなに上手かったんだ』ってことを思い知らされたりね。
そのときに感じたことは、当時のサッカーノートにたくさん書いてある。名波(浩)さんとかヒデさん(中田英寿)、モリシさん(森島寛晃)のことも書き残してあるし、カズさん(三浦知良)のこととかもね。人のよい部分を見て、書き留めることで、自分を大きくしていこうと思っていたから。だから肉離れしたあとも、ただリハビリをするだけじゃなくて、他の選手をずっと見ていたんだ。
そんななかで、『俺は代表になるまでにまだこれをやらないといけない、こういうことをやらないと上まで行けないんだ』ってことを感じることができた。そういう基準、代表のレベルをプロ2年目の時点で知ることができたのはよかったよ。今後自分が進むべき道を知ることができたわけだから」
――そのオーストラリア合宿で一緒だった代表選手では、誰が印象に残っていますか?
「カズさんだね。合宿当初は、誰も話しかけてくれなかったんだけど、カズさんだけは唯一話しかけてくれた。それはもう感動したね。『緊張しないで自分の力を出せば大丈夫だ』って言ってくれて。『すごいな、この人は格が違うな』って思ったよ。
あのときはワールドカップ前だし、誰もがワールドカップのメンバーに選ばれたいから、ピリピリしているところがあった。やっぱりみんな自分のことで精一杯だし、ライバルだし、ましてや若い奴に抜かれるわけにはいかない。声かける余裕なんかなくても当然だったはず。でも、カズさんはちょっと違ったね」
――岡田監督からはどんな話がありましたか?
「『俊輔はボールを持ちつつスルーパスが出せる、今の代表メンバーにないものを持っているから呼んだ。だから自信を持ってやってくれ』というようなことを言ってくれたかな。
ダイレクトパスは、名波さんとか山口(素弘)さんでしょ。ドリブルで持ってってというのがヒデさん。モリシさんは裏に抜けるタイプで、俊輔はそれとは別のものを持ってるからって。あのポジションで、監督はいろんなタイプを見てみたかったんじゃないかな。
練習試合は一試合も出てないけど、紅白戦とかではいろいろなことができて面白かった。あのときは毎日がドキドキだった。失敗しちゃいけないしさ。でも、そういう経験をしないと絶対上手くならないから」
――当時の日本代表にはどういうイメージがありましたか?
「すごく形になってるなって感じ。選手全員が、こうなったら、こうやるっていうのをわかり合っていた。とくに、サイドバックから名波さんにパスが出たときがすごく印象的だった。サイドの相馬(直樹)さんから名波さんにボールが出て、名波さんはそれをダイレクトでFWに当てる。そしてFWが落としたボールをサイドが受ける。その連係がすごく速くて。『ああ、この人たちは一人ひとりが上手いだけじゃなく、味方をわかってるな、形になってるな』って。だから、このなかに割って入ろうなんて、全然、思えなかった。ひたすらついていくだけで精一杯だったから」
――結局、ワールドカップフランス大会の日本代表には選出されず、年下の小野伸二選手が代表入りした。同じ若手ということで、彼に対する特別な意識はあったのでしょうか?
「そういうのは全然なかった。むしろ伸二がどういうプレーするのかなぁっていう気持ちが強かった。伸二はこういうプレーをするから、俺はこうパスすればいいとか、そういうのがわかればな、と。だけど、伸二はワールドカップで1試合しか出場できなかったからね。もっと伸二を見られたら面白かったけど」
――フランス大会はテレビ観戦でしたか?
「ちょうど大会中に、(所属していた、横浜)マリノスは北海道で合宿をしていたから、リアルタイムで見るっていうのは難しかった。
もちろん、日本の試合は見た。日本はグループリーグで敗退したけど、同じグループのクロアチアは3位までいったでしょ?
決定機をものにする能力とか、次の動きや展開に対する読み、体の使い方とか、ヨーロッパの選手は違うな、日本人にないものがあるんだなって思った。
FWもすごく高い打点でヘディングする。セルティック(スコットランド、現在所属)のチームメイトのハートソンもそうなんだけど、あまりジャンプしないで、首だけでヘディングする。ハートソンはそんなに運動量があるほうじゃないけど、それでも1試合で3回あるチャンスがあればそのうち1回は必ずゴールを決める。フランス大会で感じたのは、そういうヨーロッパの選手のすごさかな」

トルシエ・ジャパン
苦悩の4年間が始まる
'98年ワールドカップが終わり、その年の秋、日本代表の新監督にフィリップ・トルシエが就任する。ヤフラット3ユと呼ばれる新システムを採用し、これまでとは違った選手を代表に呼んだ。
「近代サッカーではふたつのポジションをこなさなければならない」
それが彼の口癖だった。
そして、中村に与えられたのは左アウトサイドのポジション。はたしてトルシエ監督のもとで、中村はプロ生活最大のジレンマに陥ることになる。
「本来の自分のポジションで持ち味を出すべきなのか、それとも与えられたポジションで常に出場できる方向を目指すべきか」
4年後に出るはずの答えを求めて、中村は新たな4年間のスタートを切った。
――トルシエ新代表監督が就任したことによって、中村選手自身、日本代表への気持ちは高まっていきましたか?
「いや、当時はまだ五輪メンバーに入るのが精一杯だった。20歳だったし、とにかくシドニー五輪('00年)に出ることが一番の目標だった。その五輪メンバーが将来代表に入っていくんだろうし、俺自身は、代表はそのうちにという感じだった」
――五輪代表もトルシエ監督が指揮を執り、中村選手が五輪代表候補で出場したのが'98年のアジア大会。この大会中、「真ん中はヒデ(中田英寿)がやる。ヒデがチームに合流すれば、お前は左サイドだ」というようなことを監督から言われたと話していましたね。当時、「ダメならダメでいい。俺は真ん中で競争させてほしかった」と言っていましたが……。覚えてますか?
「どうだったんだろうね。その頃には俺はもう考えていたんじゃないかな。左サイドをやってそこでスタメンをとるか、それとも自分の持ってるものを活かせる本来のポジションで他の選手と競って何かを得るのか。どちらがいいのかということをね。
どっちがいいのかをアルディレス(当時の横浜F・マリノス監督)に聞きに行った。監督からは『たとえ左サイドでもいいから、スタメンでピッチに立つほうが大事だ』と言われた。で、『わかった』って言ったけど、結果的にはダメだった。『あのとき、自分の本来のポジションで争っていたらどうだったんだろう?』という気持ちは今もある。
結局、五輪のアジア予選はヒデさんが日本に帰ってくることも少なくて、実際はほとんどトップ下でプレーした。でも、ヒデさんが帰ってくると左サイド。まあ、五輪レベルだったら左でもやれるって思っていたかな。
でも、もともと左サイドをやっている、職人のような選手とポジションを争わなきゃいけないし、それは厳しかった」
――自分が左サイドでプレーするなか、トップ下を務める中田英寿に対してライバル意識はありましたか?
「それはなかった。ヒデさんとはプレースタイルも違うしね。ただ、そばで見ていて『俺だったら今こうしたな』とか思うようなことはあったし、逆に『こういうときはこういうプレーでいいんだ』と参考になることもあった」
――'00年の秋にシドニー五輪が終了し、その後は本格的にA代表の一員としてプレーすることになりましたが……。
「五輪世代の若い選手も一緒に参加したからすんなり入れた。トルシエ監督も五輪世代をいっぱい使うって言っていたし、もともとの代表選手が追われるような感じになったかな。
トルシエ監督は五輪チームを見ていた時間のほうが長かったし。できあがったチームに新しい選手を入れるんじゃなくて、五輪チームの考えをA代表にポンと持ってきた感じだったから、代表にもともといた選手のほうがやりにくかったんじゃないかな? 五輪の選手のほうがトルシエ・サッカーに慣れていたわけだからね。
でも俺のポジションは左サイドだった。
Jリーグで左サイドやってる選手がいるのに、それでも俺が代表で左を任されるってことは、Jリーグでもトップ下だけじゃなくて、左サイドでもプレーできるということじゃん? ふたつのポジションをやるってすごいことのはずなのに、誰もそれに気づいてくれないっていう悔しさもあったよ」
――正直なところ、左サイドでのプレーには抵抗感がありましたか?
「もちろん左でプレーすることで得るものもあるけれど、中央でやったらもっと自分のプレーができるっていう思いはずっとあった。
代表というのは、Jリーグでいいプレーをしたから選ばれるもの。代表では、海外の強豪国相手にJリーグでやってきたことを試して、自分のプレーがどこまで通じるかを知りたいという思いが強いのに、代表ではポンと左サイドをやらされる。それだったらなんのためにJリーグで真ん中(のポジション)をやっているのか? ってね。
しかも、代表で左サイドをやって悩んでることをマリノスに持ち帰ってしまう。で、真ん中をやっているマリノスでもいいプレーがなかなかできなくなってしまったり……」
――'00年のアジアカップでは名波浩の存在もあり、左サイドでもスムーズにプレーができているように見えましたが……。
「名波さんとはやりやすかった。どんな選手でもそうなんだけど、プレッシャーがきつくなると、右利きは右にトラップしたがる。一旦逃げて、そのあと右で蹴るから。だからみんな右を向く。そういう選手が多い。
でも、名波さんは左利きだったからプレスがきたら左を見る。そうすると俺はボールがくるとわかるから、パスがくる前に動きだせる。あの大会で名波さんと組んで、左でもそういうことができちゃったから、その後も左サイドになったんだけど(笑)。
名波さんと俺とはサッカー観が似てると思う。名波さんは俺と同じパサーだし、人の動きを見ようとする。お互いの動きの質とか癖とかはパサー同士でわかり合える。『ああ、俊は裏に出ようとしてるけど、絶対ぴたっと止まって足元でボールをもらいたがってるんだな』とか、そういうことをわかってくれた。俺もわざとそういう走りをしたしね。
ヨーイドンで走っても、俺、足遅いから相手にボールを取られてしまう。だから足元でもらったら一回返して、名波さんがFWに当てて、それを俺がカットインして足元でもらう。そういうことがたくさんできたね」
――日本代表は、当時最強だったフランス代表と'01年3月、フランスのサンドニで対戦し、0‐5と完敗しました。
「もう単純にフィジカルが違った。そのうえ技術でも差がある。あの日は雨でグラウンドはぐちゃぐちゃだったのに、あいつらピタッとボールを止めていたし、動けるし。あの試合で、俺も海外でやらなきゃなって痛感した。
海外でプレーしたい気持ちはもともとあったけど、あのフランス戦でさらに高まった。Jリーグでいいプレーして代表で左サイドやってる場合じゃないって。このままだと置いてかれるっていうふうに感じたんだ。
こういう経験ができるから、アルディレス監督は『どこのポジションでも代表のスタメンでいなさい』って言ったんじゃないかな」
――その後、しばらく代表から遠ざかります。その理由は何だったんですか?
「スペイン遠征(4月)はヘルニアとはしか。その後、両股関節を痛めて、リーグ戦にも、代表のコンフェデレーションズカップ(5〜6月)にも出られなかった。あの年は完璧に厄年だったね。マリノスも最下位争いで、最悪の年。悪いことって続くんだよ、マジで。コンフェデ中には、風邪で入院までしたし。
それまでサッカーを2ヵ月間プレーしなかったということはなかった。Jリーグの年末年始の1ヵ月のオフでも俺、1週間しか休まない。完全に休むのは1週間だけ。
2ヵ月も休んだら、いろんなこと考える。テレビで代表のスペイン戦を見てたら、いつの間にか5バックやってる。で、コンフェデでも準優勝しちゃうし。『俺は代表に必要ないのかな』って思ったりして。
ただ、2ヵ月サッカーしないと無になるね。ゼロになる。考えすぎるのを通り越して、『もういいや』って、思えてくるんだよね。
それで怪我が治って、たどり着いたのは『楽しくサッカーやろう』という気持ちだけ。それで楽しくやっているうちに、リーグ終盤戦でマリノスは残留争いっていうピンチを迎えたけど、一応残留できた。
で、来年からまた代表に戻って……って思っていたときに、『俊輔は代表に入るか、入らないか』って騒動になった。でも、俺は吹っ切れていたから、トルシエとか左サイドとか、全然目に入ってこなかった。左サイドでもなんでもサッカーを楽しくやれればいいって。
ユ02年になってからも、ワールドカップのメンバーに入れるかどうかっていうのは気にならなかった。トルシエに『俊輔はメンバーに入らない、ワールドカップをテレビで見ているだろう』って、言われてもね。
とにかく楽しくサッカーをやるんだって思ってプレーしていたら、マリノスは開幕から俺がレッジーナへ移籍するまで、一敗もしなくて、1位だったからね(13節まで無敗)。そのとき、俺がマリノスでやってることは間違いないんだって思えた。
代表でもそれは同じ。メンバー発表前のスロバキアとホンジュラス戦にトップ下で出場したときも自分のプレーをしようって気持ちだけ。それで結果が出せた。自分のプレーが自分のポジションで簡単にできた。それまで代表では左サイドから、悩みながらサッカーを見てきたけど、『俺が真ん中のポジションでできるっていうのは間違ってない、俺はもう通じる』って思った。だから、代表落ちしてもあんまりショックはなかった」
――ピッチを離れた2ヵ月間が、中村選手を大きく変えたのでしょうか?
「確かにあの入院がなかったらもっとプレーが悪くなっていたと思う。俺が入院する前のマリノスは、外国人選手も来ないし、新人が多くて戦力も安定しないし、俺もイライラしながらサッカーしていたから。『お前は休め』ということは、いいタイミングだったのかなって思う。今、考えるとね」
――その'02年ですが、5月17日にワールドカップのメンバーが発表され、中村選手の名前はありませんでした。そしてそれを受けて異例の会見を行いましたが……。
「あのとき、クラブからは『落選会見はやりたくなかったらやらなくていい』と言われていた。落選した人が会見するのもおかしいかなって、少し思ったけど、でも俺は、その後メディアに追われるのが嫌だったんだ。
だから、一回で終わらせようって思った。だから普通に会見をやった。会見後、いろんな人から『えらいね、立派だね』って言われたけど、ただ終わらせたかっただけ。会見の後、俺ボウリングしてたしね(笑)」
――今でも'02年大会に出場していたらという気持ちになることはありますか?
「いや。実は間に合ってなかったんだ。ホンジュラス戦でひねった足(左足捻挫)の状態が良くなかったから。だから、メンバーに入ったとしてもあんまりできなかったと思う。
あのときは、会見ですべてが終わって、やっと解放されたって感じだった。変な迷いから解放されたって感じ。これで自分のことだけに集中できるっていうか。
ワールドカップ大会期間中は、韓国へ行ってフランス代表を追いかけてた。ジダンが見たかったんだけど、彼は怪我をしてたから、試合に出てなくて見られなかった。誰か一人いないだけでフランスでもグループリーグを勝ち抜けないこともある。何が起きるかわかんないよ、ワールドカップは」
……以下は本誌『フットボールニッポン2006春号』でごらんください!