I. 出版したいと考えている著作の要約
【仮題・候補1】
腐女子で解決★教育&社会問題 あなたも腐女子になっちゃおう!
【仮題・候補2】
教育&社会の腐女子★革命(レヴォリューション)
【仮題・候補3】
バイセク腐女子のカウンター教育・社会論 基礎編
【仮題・候補4】
腐女子はリアルな革命家★教育&社会メタモルフォーゼ
【仮題・候補5】
男も女も、みんな腐女子になっちゃいな★教育&社会の革命入門
《執筆方針》
腐女子という切り口から、今までの教育や社会のあり方に対し、ケンカを売ったり、過激な提案をしたり、一石を投じたい。そして腐女子の生き方・あり様を通じ、より良い教育・社会を実現するための、生き方・考え方の新たな選択肢を提示したい。
多様性をふまえつつ、あくまでも私個人の、バイセクシャルでもある腐女子としての立場で、暴論と思われかねないほど強く、誤解を恐れずはっきりと、わかりやすく、とっつきやすく、あくまでもバカっぽく、エンターテイメントとして楽しませつつも、切っ先は鈍らせないように書いていきたい。
より多くの読者に訴えるために、わかりやすい印象になるよう、口語に近い文体にする。この要約では省くが、前提となる情報を共有するという意味でも、基本的と思われる言葉・事柄もしっかり説明していく。難しい用語はできるだけ避けるが、重要なことばや、いいかえると正確ではなくなる場合は、注釈をいれつつ使用する。表面的なバカっぽさでだまして、多くの人に手にとってもらい、手に取った後は、そのバカっぽさに上手にだまされつつも読み進めてもらえるようにしたい。
《要約》
まず序章で、腐女子やジェンダーなどの用語について説明し、後に述べることの基礎を作っていく。
第一章では、腐女子の問題意識や生き方について詳しく見ていきつつ、それが現代社会を変革する可能性をもったものであることを示し、新しい社会のかたち・新しい生き方を提案する。
第二章では、社会の中でも人の思考に大きな影響を与え得るツールである教育について、腐女子を通して考える。腐女子としての創作または消費の行為を解説しつつ、国語教育や性教育の変革へと話をひろげていく。
第一章、第二章で述べた腐女子の可能性の話から一転し、第三章では、現在の腐女子の問題点をみていく。そして最後に、全体を振り返りながら、問題があっても、やはり腐女子は教育と社会の可能性をひらくものだということを示したい。
《序章:腐女子だからです★←結論》
男も女も、みんな腐女子になっちゃえ★そしたら、教育問題も社会問題もパパッと解決しちゃうぞ★
というのが本書の結論である。何言ってんだ、こいつ。今は、そう思っていただいて構わない。
腐女子はリアリストでありながら夢想家であり、保守的にみえながら変革し続けている。それらの矛盾する要素を持ちながら、決して立ち止まらず、萌えつづけ走りつづけるのが腐女子なのだ。
そんな腐女子に誰も彼もがなっていくと、どんな問題がどのように解決されるのか、本書を読んで、腐女子の素晴らしさを思い知っていただきたい。
腐女子は何をする人ぞ。 基本用語解説
腐女子とは、架空の存在である男性キャラクター同士の恋愛を妄想したり、そのような恋愛を描いたマンガや小説などを好む者である、というのが妥当な定義だろう。
ここで私は、あえて「腐女子」を、BL・やおいを好む「女性」とはしない。女性が大半ではあろうが、腐趣味をもつ者の中には、腐男子や腐兄と呼ばれる男性もいる。また「腐女子」のなかにも、トランスジェンダー・性同一性障害者など、生まれた時の生物学的な性が女性ではない人もいるだろう。異性愛者だけでなく、同性愛者も両性愛者もいる。自分自身の恋愛にも懸命な人もいれば、生身には興味がない人もいる。そういった、多様な集団をまとめて、私は「腐女子」と呼ぼうと思う。
性別だけではない。腐女子の中には、さまざまな趣味嗜好、異なる倫理観をもった人たちがいる。
ある腐女子は、オリジナルの、つまり最初から男性同士の恋愛描写があるのが前提となっているBLを好んで読むが、同人誌はほとんど買わない。また別の腐女子は、あくまでも二次創作的に、恋愛関係ではない少年漫画などのキャラクター同士を恋愛関係に置き換えることに萌えるので、同人誌は山のように持っているが、オリジナルのBLはほとんど読まない。
私のように、二次創作やBLを書いてはいるが、読む方向にはあまり食指が動かない腐女子もいれば、もちろん、読むだけで書かない腐女子も大勢いる。
声優の演じるBLドラマCDが好きな人もいれば、耐えられない人もいる。BL雑誌によって、作風も異なれば、それぞれのファンがいるし、その間では「ああいうタイプのBLは許せない」「邪道だ」なんて意見も出てくる。
いけないと思いつつ三次元(芸能・特撮)で萌える人もいれば、三次元萌えが全く理解できない腐女子もいる。
乙女ロードで有名になった「乙女」ということばと「腐女子」とは、同じように用いられることが多いが、乙女ゲームやドリーム小説といった、自分(を投影した主人公キャラ)と男性キャラとの恋愛ものにハマる「乙女」に対し、「腐女子」は自分とは切り離した世界観をもっているため、乙女なものに抵抗を感じる場合もある。
実はカップリング萌えはないけれども、あるキャラクターが好きで二次創作を読んでいたら、腐女子文化に染まってしまったというような、腐女子なのかそうでないのか微妙な人もいる。
もちろん、腐女子の中でも世代間の感覚や認識のズレはあるし、ひとりひとりの求めている萌えも千差万別だ。
そして、そういった腐女子間にもある差異を、大きく感じる者もいれば、全く気にしない者もいる。
そのように、腐女子の中にもいろんな種族、悪い言葉でいえば派閥があって、お互いに牽制し合ったり、影響を与えたりしながら、日々あたらしいBLを、日々あたらしい萌えを産みだしている。
そういった腐女子の中の差異や、腐女子文化の豊かな多様性を、興味本位なマスコミはともかく、世に出回っている腐女子論ですら、無意識にか故意にか無視してしまっているものも多い。それは、もしかしたら腐女子の閉鎖志向・排他性とも関係があるのかもしれない。
《第一章:社会を腐女子でBLにしちゃえ★》
この章では、腐女子になったら、どんな社会問題が解決するか、明らかにしていきたい。
性や家族観なども含めた、社会のあり方に対する、腐女子の豊かな考え方と視点を、ぜひ共有してほしい。
性的で知的な冒険家の開拓地、それがBLなのである。
BLに教わろう!新しい恋愛★新しい家族
世にあふれるBLだが、ボーイズの「ラブ」というだけに、やはり恋愛を中心に描かれることがほとんどだ。少女マンガから派生したという出自も関係しているだろうが、女性が理想とする恋愛を体現しているのがBLなのだ。攻めの熱い愛を受けが受け入れ、カップル成立でハッピーエンドという、基本的には「二人だけの愛の世界」を目指した物語だと言ってもいい。その「愛」のイメージは、男性キャラクター同士の愛を描いているにも関わらず、世間一般の恋愛観、つまり男女間における恋愛観から大きく影響を受けている。この社会に生まれてきたからには、その男女間の恋愛イメージから全く影響されないということはあり得ないだろう。
しかし、あふれかえるBLの中には、実にいろいろなカップル(パートナー)、いろいろな家族が出てくる。それらは、まるで世間一般の恋愛観や家族観をひっくり返すかのようだ。
私が知っているだけでも、攻め二人に受け一人の組み合わせで仲良く三人同居する話や、攻めが友人と同居している家に受けが転がり込んでくる話、攻めが女性と結婚した時にできた子供を女性亡き後に受けと一緒に育てる話、カップル二組の四人で一緒に暮らす話(うち一人は子供)、大きな屋敷に住む一家がそれぞれ自分の同性のパートナーを連れ込み大家族を形成している話などなど、細かな話の展開まで含めたら、とてもとても「そしてお姫さまは王子さまと末永く幸せに暮らしましたとさ」なんて生っちょろい女の子の夢なんか、あっという間に書き換えられてしまいそうな、ぶっ飛んだ話がいっぱいある。近親相姦ですら、腐女子の萌えの前にはあっさりと、世間一般の押し付けるタブーなんて飛び越えてしまう。もちろん、BLというからには近親相姦なうえに同性愛である。タブーのてんこもりだ。
口うるさいPTAのお母様方や、政治家や教育委員会のお偉方が読んだら、卒倒するか、口からカニのように顔を真っ赤にして泡を吹いて怒り狂うかもしれない。
しかし、それらは本当に「不道徳」な物語だろうか。私の考えは逆だ。
最初に、BLは愛を描いている、と書いた。どんな形をとっていたとしても、BLに描かれているのは、確かにパートナーへの惜しみない愛であり、ともに生きていく者たちへの家族愛なのである。それのどこが「不道徳」なのだろうか。
もちろん腐女子とて、男女間の恋愛や性行為を否定するわけでは全くない。結婚するまで処女で、男女の一つがいで添い遂げる。愛があるならば、それも素晴らしいことだ。子を産み育てるのは尊い行いだし、むしろ、もっと尊ばれるべきだとも思う。実際、彼氏や夫がいる腐女子、こどもをもつ腐女子もたくさんいる。しかし、男女間のそれだけを「道徳的」だとして許し、他は認めないなんて、そんな心の狭い窮屈な「愛」の押し付けはいらない。
腐女子にとっての「不道徳」とは、愛のない世界であり、それによって誰かが不幸になる世界である。BLにおいて近親相姦はタブーではないと書いたが、タブーになるとしたら、世間で言われているからではなく、それが当人たちの真の幸せ、本当の愛ではないからだ。
恋から生まれた愛が、関わる人々も巻き込んで、みんなを幸せにする、それが腐女子の理想とする世界であり、BLが描こうとしている世界なのである。
BLは、愛について、人の本当の幸せについて、生き方について、読む者に深く深く考えさせてくれるのだ。BLを生みだしたのは女性だが、BLは読者の性別を選ばない。あなたも、偏見を捨て、BLを手にとって読んでほしい。きっと、BLは深い懐であなたを受け入れ、あなた自身が変わるほどの、たくさんの感動を与えてくれるだろう。
少子化ストップ!応用★BLスタイル
より多くの人の幸せを考えるなら、ひとつのお仕着せのパターンにこだわるよりも、たくさんの選択肢を作り出した方がいい。そうして、腐女子はBLの世界で、これまでの男女間における恋愛観とは違った、新しい恋愛観・新しい家族観を生みだしている。
では、それらを現実の社会に応用したらどうなるだろう。無茶だ、と思うかもしれない。しかし、それは本当に無理なのだろうか。何が、どうして無理なのか、はっきり言える人は果たしているだろうか。
男女でも、男男でも、女女でも、男男女でも、女男女でも、好きに家族を作って暮らしていいのだとしたら、もっと世界は愛と幸せに満たされないだろうか。その可能性を排除する意味が、どこにあるだろう。
「同性婚」を認める国や、「パートナーシップ法」などと呼ばれる同性間にも婚姻と同等の権利を認める法律をもつ国・地域も、少しずつ増えてきた。
いまや、家族観の変化はとどめようがない世界的な流れなのである。そして腐女子とBLは、同性婚にとどまらず、常により多くの愛と幸せにつながる可能性を模索し、新しい扉を開きつづけているのだ。
「道徳的」なお偉いさんたちは、家族観が変わってしまえば、家族が壊れる、少子化が進む一方になってしまうなどと不安がるが、その程度で愛ある家庭が壊れてしまうのか。そんなに自信がないのだろうか。そんな些細なことにこだわり、旧態依然の倫理をふりかざしているから、かえって晩婚化も少子化も進むのだと、なぜ気がつかないのだろう。
同性婚の場合、男性同士なら(言葉が妥当かわからないが)代理母を頼む、女性同士なら精子の提供を受けるという手段も認めてはどうだろうか、と提案したら、きっとお偉いさんたちは、こどもにはお父さんとお母さんが必要だ、と言うだろう。それを否定するつもりは全くない。こどもにとって、父親であれ母親であれ、血のつながった親は特別な存在にちがいない。生みの親との関係を断ち切る必要なんてない。そうではなく、親子のつながりかたを一つに決めつけず、家族の輪をもっと広げたり、関係性を開いたものにしていき、さまざまな家族の形を認めていった方が、子どもにとっても親にとっても生きやすい社会になるはずだ。
ところで、日本では一年に何件の中絶が行われているか、ご存じだろうか。調べてみて驚いたのだが、二十五万件以上もの中絶が行われているのである(二〇〇六年度で約27万6千件)。私は最初、桁を数え間違えたかと思ったくらいだ。同年の出生数が約109万2千人だから、妊娠した人の総数は約137万人、つまり四〜五人に一人は中絶をしたことになる。厚生労働省がつかんでいる数字だから、もしかしたら中絶の実数はもっと多いのかもしれない。徐々に件数は減っているとはいえ、二〜三十万人の命が毎年消されているのだ。愕然とする。しかし、単純に中絶をした当事者ばかりを責めることはしないでほしい。理由はいろいろあるだろうが、それらには個人ではどうにもしようがないことも多く含まれているのではないだろうか。日本の社会で生きていくために、やむを得ず中絶の道を選んだとしたら、それだけ多くの命を奪っているのは、紛れもなく、日本に生きるあなたであり、私自身である。日本の社会が殺しているのだとしたら、あなたも私も、等しく罪を背負っているのだ。
この状況を、お偉いさんたちはどう考えているのだろう。「望まない妊娠なんてしないように純潔教育をするのだ」とでも言うのだろうか。「望まない妊娠なんてする方が悪い」「そんな考え方が生まれ来る命を奪っているだなんて、まるっきり考えてもいないのだろう。現代の社会通念に照らし合わせても、あまりにもバカバカしすぎる。私の「不道徳」な暴論の方が何千倍もマシだ。
少子化問題のことを考えても、妊娠させないより、中絶しなくても済む社会の方が、はるかに良いのではないか。
妊娠、出産、子育てに対して、公的な資金援助を今よりも厚くすべきなのは疑いようがない。二十代後半から三十代の、いまこそ繁殖期な世代は、ちょうど就職氷河期世代であり、自分一人が生きていくのに精一杯な経済状態であることも多い。それでは、こどもなんて産むに産めない。しかし、お金だけで解決するとも、私には思えない。
親の愛情は、絶対に必要だ。だが、親(特に母親)だけに子育てを押し付ける必要はないのだ。もっとゆるやかに、もっとおおらかに、たくさんの人が関わって育てていっても良いのではないだろうか。今までの家族観にばかりしがみついていても何も変わらない。何も夫婦に限らずとも、社会を構成する要素には、さまざまな形があっていい。ぽんぽん子どもを産める、たくさんの人の支えを感じられる、安心できる社会をつくるためにも、新しい家族の形を、どんどん認めていくべきだ。
厳密にはBLではないのかもしれないが、「ニューヨーク・ニューヨーク」というマンガで、後日談的な話として、同性婚をした主人公の男性二人が、子どもを引き取って育てるというストーリーがあった。
実際のアメリカのゲイ社会では「Aと、Aの彼氏と、Aの元彼氏と、Aの元彼氏の今の彼が同居し、お互いにサポートしあっている」という話を見かけることがあり、私は「なんてうらやましい愛の形!」と思った。なにも、血以外に人を家族として結びつけるのは、性的な交わりだけだと決めつけることはない。
たとえば、私と友人たち四人で暮らした腐女子ハウスも、性的な交わりはなくとも、家族愛に近い感情はあった。
結婚相手に求めるのは、恋のときめきよりも、一緒にいて楽で邪魔にならず安心できるかどうかだとしたら、別に、無理に男女でつがう必要などないではないか。同性愛者じゃなくたって、一緒にいて楽なのは、きっと同性だろう。
たとえ親が片方いなくても、経済的・身体的・将来的な不安があっても、そういった共同体の中で、いろんな人が支えあって子育てしていけるように、社会全体の意識を変えていけば、中絶の件数も減らせるのではないだろうか。いろいろな人の目と手があれば、虐待の件数も減るだろう。
繰り返すが、親という存在は不可欠で、替えの利かないものだ。要は、生みの親との関係が保たれていればいいのだ。いろんな大人がいる中で、たくさんの大人に愛されて育つというのも、なかなかに素敵なことだと私は思う。
私自身、母子家庭だったが、祖父母は親代わりのような気持ちで育ててくれたし、大伯父夫婦や大叔母や叔母といった親戚一同が、なにかと面倒を見てくれた。小さい頃は、下宿していた大学生のお兄さんお姉さんにも、とても可愛がってもらった。母の恋人だった男性も、自分の子供であるかのように私に接してくれた。そんなたくさんの人たちの愛があったから、私は成長できたし、今まで生きてこられた。いまの社会で、そういう人の輪を血縁だけで作るのは難しいだろうが、血縁や結婚にこだわらなければ、まだまだ可能性は大きく広がっているはずだ。
今こそ腐女子になって、時代の先をゆくBLから、新しい恋愛観と家族観を学ぶべき時だ。
とんでけ★男女不平等
BLは女性が理想とする恋愛を体現している、と書いたが、ではなぜ男性同士の恋愛なのだろう。
男女の恋愛物語を読む時に、必ず私たちは今まで社会の中で生き、感じてきたものを背景に読み取らずにはいられない。それは多くの女性にとって、女性嫌悪的な態度や発言や、男からのぶしつけな視線、男女不平等感などを思い出させる、不快なものであったりする。女だから愛されるし、女として愛されるのだということを、いろいろなメディアでなされる表現や、日常会話から、女性は敏感に察知している。それに順応する者もいれば、できない者も、したくないと感じる者もいる。
BLは、そういった雑音を遮断し、恋愛の機微に焦点をしぼるための装置だということもできるだろう。女性としての自分は、その中にはいない。女性への抑圧的な視線を意識する必要はないのだ。男女間だと不快に感じるような言動でも、同性という対等な立場でなされたのだと錯覚していれば、ただ愛する・されるということのみに浸っていられる。
しかし錯覚は、どうあがいても錯覚でしかない。それに気付いたもの、目覚めたものによって、ただ男女の恋愛をなぞるだけではない、錯覚におさまらないBLが、次々に生み出されている。
受けが極めて女性的であっても、女扱いを拒否し、対等であることを要求する話もたくさんあるし、少女漫画的ラブロマンスなのに腕っ節の強い受けが攻めを守るという話もある。
セックスにおいて性器を挿入される側=受けだが、能動的・主体的に攻めを愛して攻略するという筋書きは、すでに襲い受けという一つのカテゴリーとして認知されているし、男女の性役割を踏襲することを最初から放棄した、リバ(リバーシブル)といわれる、攻め受けが入れ替わるパターンもある。
そういった考え方・萌え方が広がっていくにつれ、二次創作の世界では、男女の恋愛ものに対しても、女×男という表記がみられるようになってきた。それは、女性が攻め=能動的・主体で、男性が受け=受動的・客体という意味である。「女は突っ込まれてアンアン言ってるだけ」なんて思ってる童貞クンたちには想像もつかない世界だろうが、腐女子の性と恋愛はこんなに豊かで自由なのだ。
この萌え方・愛し方を、一部の腐女子の楽しみとしておくのはもったいない。ぜひ、腐女子になって、同じ萌えを感じてほしい。そうすれば、これまでの恋愛観が一気にひっくり返り、性別に基づく先入観や義務感を超えて、自由に愛しあえる世界が生まれるのではないだろうか。
腐女子は男でも女でもない性?
BLは男性同士の恋愛を描いている。それが女性である腐女子の理想の恋愛なのだとも書いた。
ここで、「腐女子の欲望って、ちょっと変?」と思った人はいないだろうか。
オタク男性が、二次元美少女と疑似恋愛するのとは訳が違う。オタク男性の場合、対象が二次元というだけで、男性が、異性である女性に欲情するという構図は変わらない。仮にその男性が二次元の世界へいけたら、もしくは美少女が三次元に現れたら、相手にしてもらえるかどうかはともかく、少なくとも物理的にセックスは可能だろう。
しかし腐女子は違う。自分の存在など関係ないところで行われる男性同士の恋愛をみて、萌える=欲情するのだ。つまり、自分の肉体では実現不可能な性欲=萌えを持っているということになる。彼氏や夫がいる腐女子でも、生身の男になんか興味ないという腐女子でも、同じ萌えを持っていることに変わりはない。
もちろん、攻めか受けに自分を投影して読むことはできるだろう。攻めの視点と受けの視点を行ったり来たりして楽しむこともできる。しかし、そこで行われている恋愛を成就するのは女性身体をもつ自分ではなく、あくまでも異性である男性だ。読者も書き手も、あくまで恋愛の傍観者なのである。男女の恋愛物語ではなくBLを選ぶということは、女に自己投影したくないという気持ちの裏返しかもしれない。
その異性に自己投影するという特殊性から、「腐女子こそ第三の性(ジェンダー)だ」なんて誇らしげな言説が流行ったりもした。
腐女子は必ずしも性同一性障害者ではない。私のように、いわゆる女らしさ・女っぽさへのこだわりが少ない人もいるが、むしろ、女性であることを楽しんでいる人も多い。
女性身体への違和感はないのに、脳内(BL世界)では、男性として感じ、愛し、つっこんだりつっこまれたりしているのである。腐女子の世界には「こころのチンコ」なんて表現さえある。たしかに、女性は脳内も女らしいはずと思っている人からしたら、ちょっと違う人種に思われるだろう。
しかし、腐女子を特殊だと、男女の性別から切り離す必要があるだろうか。女はすべて腐女子でいいし、すべからく男たちは腐兄でいいではないか。「こころのチンコ」は、腐女子の中にある男っぽい部分や、性欲の象徴である。そんなもの、どんなに貞淑で清楚な女だって、多かれ少なかれ持っているはずだ。男性だって「女性のように」「愛されたい」と思うことがあったって良いではないか。
BLは、男女間の古い恋愛観をぶちこわすものだと書いた。BLを生産消費する腐女子は、積極的に萌え=性欲を表現することで、男や女という性別への古いイメージを変えてくれるのだ。
新しい性、新しい恋愛、新しい家族。さあ、新しい時代へ、レッツ腐女子★
《第二章:腐女子センセーの萌えは勉強を救う★》
腐女子センセーの国語のじかん
二次創作をする腐女子の原作(一次作品)への愛と読解の深さは、ただごとではない。
マンガ評論など全く知らない市井の腐女子たちが、空白のコマのもつ意味を、何気なく挿入されたエピソードの意味を、キャラクターの些細な行動や無言の表情の意味を、そこにあらわれた風景の意味を、読み解き、さらにそこから萌えを見出すのである。
その高度な読解を可能にするのは、腐女子の愛と情熱に他ならない。その熱い愛情は、下手をしたら作者本人すら無意識のうちに行った表現を、画面から繊細に読み取りさえする。
同じ情熱を勉学に向けられたらどんなにか…!とは、親教師はもちろん、本人たちとて思うことだ。
逆に、なぜ国語を勉強する気にはならないのか。それは、腐女子的にいえば「萌えが無い」から、つまり物語が他人のお仕着せで、自分のものになっておらず、主体的に読めるものではないからだ。のめりこみ、愛し、ああでもないこうでもないと自分の心を動かし、目の前の物語に翻弄されるからこそ、読みは深くなっていく。
その情熱を、どうやったら国語教育に活かせるのだろうか。
答えは簡単だ。
生徒ではなく、教師が自ら腐女子になり、自分の萌えを語ればいいのだ。そして、生徒を全員、腐女子化してしまえばよい。これを腐女子の専門用語で「布教」という。書評を読んで本を買う気になったことが、あなたにもないだろうか。それと同じである。
まず「面白いから読んで!」このメッセージが今の国語教育には足りない。教師がつまらないと思っているものを、生徒が面白がるはずがない。読解の技術ばかりを求めて、何のために読解するのかを忘れているのだ。何のため?決まっている、より深く楽しむため、より深く愛するため、より深く萌えるためだ。
だからこそ、まず教師が自分の萌えを語り、愛するに足る作品であり登場人物であることを伝えなければならない。もちろん、全てを明かしてはならない。生徒=布教相手の読む意欲を削いでしまうからだ。あくまでも目的は、共に萌える=読解することである。
同じ愛や萌えを感じてもらえれば、しめたものだ。萌えなかった理由を語るのもいいだろう。萌えなかったというのも読解の結果である。
腐女子の萌えるメディアリテラシー(読解能力)
前節で作品の読解について書いたが、腐女子といえば二次創作。
二次創作・パロディとは、どのように原作(一次作品)を読解し、曲解したかを表現したものである。そこにはすでに、作品を多角的に見るというメディアリテラシー能力が発揮されている。自分の読解に基づいたキャラクターや世界観で書く二次創作と、原作の連載・放映が並行して進んでいく場合もある。そうして重ねてみていく中で、自分の読解が正しいかどうかや、原作の凄さ、素晴らしさ、逆に問題点が見えてくることも多い。キャラクター像が自分の読解と違っていったり、マンガの展開・方向性が望まないものになってしまう事をきっかけに、マンガはマンガ家一人が作っているのではなく、編集者も深くかかわるものだと知ったりもする。自分の好きなマンガが打ち切りになるといったことから、マンガを文学的に読むだけでなく、商業的な側面から、出版社や雑誌という媒体を意識した読みにつながることもある。
また、原作がアニメ化・ドラマCD化など別の媒体で展開していく過程を見守る時にも、腐女子はメディアリテラシー能力を磨いていくし、ネットや雑誌などで得た情報から、いわゆる大人の事情もふくめ、多角的に作品を見る力をつけていく。
さらに二次創作の読み手は、二次創作者の読解が曲解であることを踏まえたうえで、二次創作物を楽しむ。腐女子のたしなみとは、実は、メタで高度なメディアリテラシーが必要な行為だったのだ。
高度情報化社会のなかでは、高度なメディアリテラシー能力が必要とされることから、昨今、メディアリテラシー能力を育てる教育の実践・研究が進められている。今こそ腐女子の出番だ。
オタクの世界から教育への流れとしては、岡田斗司夫氏が東大でオタク学の講義をしており、まさにメディアリテラシー教育につながるものだったが、それに続く動きがない。マンガやアニメを研究している大学もあるが、専門分野の中にとどまってしまっている。もっと、成果を社会に広く還元し、未来をしょって立つ、そしてマンガやアニメに触れる時間も多い小中高の子供たちにも伝えていくべきではないだろうか。そうなれば「この凶悪事件はマンガ・アニメ・ゲームが原因だ」などという愚かな発言は、二度となされなくなるだろう。
腐女子センセーという人材がいないというなら、いっそ腐女子な生徒に、メディアミックスの功罪について小一時間語ってもらったらどうだろうか。きっと心の動きが伝わる良い授業になるだろう。
腐女子センセーの作文きもちいぃ〜★
たいていの生徒にとって、作文や感想文は気が重い課題だろう。今ではこんな文章を書いている私も、かつては感想文も作文も大嫌いで大の苦手だった。きっと多くの腐女子にとっても同じだろうと思われる。
なのに、腐女子のブログをみれば、熱く自分の萌えを語っているし、さらに二次創作という形で一つの作品を書きあげてしまうものも多い。つまり、腐女子としてならば、書く行為は苦痛ではなく、むしろ快楽となるのである。
作文や感想文を得意にするなら、やはり腐女子になるしかない。腐女子となって、与えられたものではなく、自分のうちから出てくる言葉をつづればいいのだ。
目指すべきは、快楽から生まれる作文、快楽を生みだす作文である。
たとえ、話さずにはいられないくらい萌える物語と出会えていなかったとしても、作ってしまえばいい。読みたいものがないから、自分で書く。その自給自足こそ、腐女子の二次創作である。
死にネタは腐女子的に不可で、ハッピーエンドが基本というのも重要なポイントだ。文章力がない生徒、特に小学生男子は、死にオチにはしりやすい。また、物語が破綻し、理不尽な終わり方になることもしばしばだが、幸せな結末にするという目的をもっていた方が、書きすすめやすいのではないだろうか。
書く力・文章や言語で表現する能力は、先ほどのメディアリテラシー能力ともつながるし、コミュニケーション能力にもつながっていく、社会生活をする上で絶対に必要なチカラである。腐女子の萌えのチカラで、言葉も心も、どんどん豊かにしていってほしい。
腐女子の実践★著作権教育
「腐女子は隠れるべきだ」という意見が、腐女子の中に根強くある。その理由の一つが、二次創作をする腐女子の、著作権グレーゾーン意識だ。
そもそも「二次」というだけに、他人の作ったキャラクターや舞台設定・世界観、そして物語そのものを、勝手に分断して借りてきて、いいように作り変えているという、罪の意識・後ろめたさがある。
それに、やおいを嫌う作家もいる。自分の萌えに忠実でありたくても、たとえ萌えの表現自体が正当な行為であると仮定しても、敬愛する作家に嫌な思いをさせるかもしれないのだ。
また、同人誌の世界でも、売れ始めた絵柄が真似されるといった”事件”が起こることもある。
そういう状況で、法(財産権)としてだけでなく、人権としての著作権に関して、腐女子は敏感にならざるを得ない。
また原作(一次創作物)とそっくりの絵柄で同じような構図だと、トレースが疑われる。もし模写・トレースを表に出した・販売したことが判明すると、手厳しい断罪が待っている。もちろん、その視線は商業出版されているマンガにも向けられる。度重なるトレース・盗用があったとして、講談社が末次由紀というマンガ家の作品すべてを絶版にしたこともあった。模倣なき表現はありえないという立場から、盗作とは違い、模写は容認されるのではないかという意見もあるし、模写とトレースの違いについて、熱い議論が交わされることもある。
このように腐女子にとって著作権は、身近な問題なのだ。
ひるがえって、教育業界は、著作権に対する意識が極めて薄い。国語の問題など、最低限の情報である題名・著者名すら明記せずに、抜粋・引用し、あまつさえ改変までされていることがある。作家本人が読んだら怒るのではないかと感じる改変も多い(人格権)。また、物語の続きが気になっても、何に載っているのかわからないこともざらにある(財産権)。もちろん、先生が教材として使いたいと思った時に、申請し、使用料を払わねばならないとなると、煩雑すぎるだろうし、だんだんフリーの素材しか使わなくなっていき、名文に触れられなくなってしまうだろう。多くの文章に触れることは教育上、有意義だ。私はいっそ、題名・著者名などを明記することや改変しないことを義務付ける代わりに、小中高の学校教育での使用は全面的に解禁してしまえばよいのではないかと思うのだが、現状はうまい仕組みがないので、グレーゾーンのまま運用し、黙認してもらっている。
そういった状況で育った子供たちに、著作権への意識がないのは当然である。たまたま腐女子・オタクになったものだけが、作家が叩かれるのを目の当たりにし、また自分が叩かれたりすることで、身をもって学んでいるだけだ。
しかし、これはメディアリテラシーともつながるのだが、インターネットなどで自分も情報発信をしていく際に、著作権の意識は絶対に必要となる。模写とトレースと盗作の違いなど、よいテーマではないだろうか。腐女子センセーは、ぜひ身をもって感じたことを、子供たちに伝えていくべきだ。
エロス大好き★腐女子センセー
腐女子の、性に関する表現には、まだまだ問題も多い。内面化された封建的・前近代的な性役割に基づく性的ファンタジー・恋愛ファンタジーに捉われた作品が、王道ともてはやされたりもする。BLはファンタジーであるとして、ゲイ男性が現実にいて、実際にこの社会で生きているのだということを、最初から全く考慮に入れていない書き手・読み手も多い。「やおいはホモじゃない」「BLはいいけど、本物のゲイはちょっとね」そんな風に言われてきたのも事実だ。
そういった問題もあるが、たとえば、よしながふみ作「きのう食べた?」のように、ゲイ男性のおかれた状況・日常を、真摯に描いている作品もある。また、腐女子の世界が広がり深まっていく中で、作品の傾向も、読者の意識も、少しずつ変わってきているように思われる。
セックス描写にしても、以前は、いわゆる生ばかりでコンドームを使っているものは非常に少なかった。男女の性行為をそのままなぞったような描写は未だに多い。しかし最近では、「男同士のセックスマニュアル」などの本を読み、しっかり勉強して、現実の男性の身体で可能な性行為や、セイファーセックスの描写を心がけている腐女子も少なくない。
また、腐女子は第三の性別という言い方があると書いたが、そういった男性同士の恋愛に萌えるという自分自身の不可解な内面を見つめる中で、これまでの女性・男性という枠組みに捉われない性のあり方を見つけていくこともできるだろう。
だからこそ、あえて私は、そういった腐女子の意識からの性教育を勧めたい。
まずは、BLをテキストにしてみてはどうだろうか。
同性愛への嫌悪感や同性愛者差別の問題に関しての意識を高めるのはもちろん、BLの描く恋愛と性から、相手の性・身体を大切にすることを学ぶこともできるはずだ。BLという表現形態から、抑圧された女性の性について考えることもできるだろう。現実世界の男女が対等だと思える関係を目指していく時に、女性が考える理想の関係である、フィクション上の男男関係から学べることも、きっと多いだろう。
性の話から逃げていたって、性差別や性暴力、性病感染者の増加、望まない妊娠と中絶、若い同性愛者の自殺、ひいては少子化といった問題が解決するわけではない。なんとかしたいなら、真正面から語り、一緒に考えていくしかないはずだ。
堅苦しい問題を語り合うのは、難しい。しかしBL作品を介して、愛するってどういうこと?異性を愛することと、同性を愛することって、なにが違うの?どこが同じなの?そういった問題を考える契機になればいいと、私は思う。そこから、現代社会の性にまつわる諸問題も、少しずつ解決されていくのではないだろうか。
勉強って萌え〜★
学習意欲のない者が、進学塾なんぞに来るんじゃない!
私は塾講師をしながら、ずっとそう思っていた。学校の授業では理解しきれなかった部分を引き受ける補習塾であれば、勉強がわからなくなってしまい、学習意欲をなくしてしまった生徒が、塾で疑問を解消し、理解できるようになって、勉強が楽しくなり、再び学習意欲がわくという展開もありえるかもしれない。しかし、少なくとも「疑問を解消したい」「理解できるようになりたい」と思っていなければ、それも起こり得ないだろう。
そもそも、教育とは権利であり、義務ではない。義務教育とは、子供に教育をさずける義務を大人が負っているということであり、子供が勉強するのが義務なのではない。子供の仕事は、勉強なんかじゃない。遊ぶことだ。遊びの中から、仕事や学問を学んでいけばいい、と私は思っている。
もちろん、読み・書き・計算といった基本的な勉強は、社会の中で生きていくために必要な技術だろう。それを、教えることに異論はない。だが、だれかが九九が言えないことで、なにか社会が迷惑するだろうか。
たとえば私など、九九を半分しか覚えていない。一の段など、くだらなくて口にした覚えもない。嫌なガキである。しかし、九九が半分うろ覚えなせいで、時々暗算で単純な計算ミスをしてしまう。それが仕事上のことであれば社会が迷惑したと言えるだろう。しかし仕事であれば、私は暗算に頼らず、電卓を使うだろう。最近、電卓は携帯にも標準装備だから、どこでも使えるのに、プライベートで使わないのは、私がいいかげんなだけである。それに九九ができない私でも、一応は数氓ュらいまでなら、ちゃんと理解できていたのだ。考え方さえ理解していれば、表計算ソフトだって使える。何も困らないではないか。
学びたくないというなら、放っておけばよい、と私は思う。ずっと何も学ばないなら、社会生活の中で必ず困る場面が出てくる。そうやって困ったとき・必要性を感じた時というのは、自分の中から学びたい・学ばなければならないという気持ち、学習意欲が生まれた時であり、その時に学ぶからこそ身につくのではないだろうか。
むしろ勉強とは、ただの遊び、ただの趣味だ。それでいいし、そうあるべきだ。
「うっわ、複雑な計算が整然と解けた!美しい〜〜!」「この言葉づかい、この表現、たまんねぇ〜!」「上杉謙信、萌え〜〜!」「この化学反応、俺のハートも燃えるぜ〜!」勉強には、本来そういう心が興奮や感動で燃える瞬間・腐女子的にいえば萌えがあるべきだと思うのは、理想論に過ぎるだろうか。
少なくとも私にとっては、勉強は萌えと燃えの宝庫であり、趣味の一つは勉強だ。勉強することの萌えと燃えを伝えたいという教育への熱意は、腐女子の「このキャラへの愛、このカップリングの萌えを、誰かに伝えたい」という気持ちと似ているように、私には思える。
腐女子センセーは、きっと楽しい授業をしてくれるにちがいない。
さあ、授業の時間だ。レッツ腐女子★
《第三章:腐女子問題》
今まで、腐女子の良い部分ばかりを強調してきた。しかし、当然のことだが、腐女子にも問題点はたくさんある。いや、その問題点を考えることは、現代社会の問題点を考えることに等しい。この章では、腐女子問題から社会問題を考え、その上で、やはり腐女子になるべきであるという理由を示したい。
なんで""腐ってる""なの?
「腐女子は隠れるべきだ」という考え方が、腐女子の中に根強くある。腐女子の妄想はもちろん、腐女子の存在自体、隠されるべきものであり、可視化されてしまった、昨今の腐女子ブームというような状況は不本意極まりないだとか、メディアは興味本位に暴きたてようとするが、放っておいてほしいといった意見は、いま現在でも数多く見受けられる。世代による感覚の違いもあるだろうが、程度の差こそあれ、そもそも「腐」という卑称を用いている時点で、ほとんどの腐女子が同じように感じていることがわかるのではないだろうか。私たちは自分が腐っているのを知っている、指摘されるまでもない、腐ったものにはフタをすべきだ、そういう意識が「腐」という蔑称には込められている。
では、腐女子の「隠れる美学」に隠されているのは、いったい何だろう。
まず挙げられるのが、自衛の意識だろう。オタクと同様、腐女子も学校では「キモい」と言われるし、大人になってからは未成熟な人格といわれたり、メディアから犯罪者予備軍として扱われることもある。そういった状況に対し、自分が腐女子であることを隠そうとするのは、至極自然な成り行きだろう。
そしてオタクと違うのは、腐女子の場合、男性同士の恋愛に萌えるという特性がある。そのため、オタク嫌悪に、同性愛嫌悪(ホモフォビア)まで加わってくる。「男同士の恋愛なんていうキモいものが好きな、キモいオタク」というわけだ。
さらに、腐女子は、ほとんどの場合において生物学的には女性である。上記二点に加え、さらに女性蔑視・女性嫌悪の視線も入ってくる。「女のくせに、男同士の恋愛なんていうキモいものが好きだとかいってはしゃいでる、キモいオタク」となるわけだ。
そして腐女子は、恋愛といえばキレイな気がするが、少なからず性的な妄想もする。女性が性欲をもつこと、あまつさえ露わに表現するというのは、世間的にまだまだ認められていない。「女のくせに、男同士のセックスなんてキモいものに欲情する、キモいオタクな淫乱女」ここまでくると、自分で書いておいてなんだが、心がくじけそうである。
そういった、外的な要因だけでなく、内的な要因もある。BLが好きだというのは、性指向ではなく、ただの趣味嗜好だ、という自覚が、隠れなければいけないという意識を強める。つまり、自分自身がする恋愛ではなく、たとえキャラクターという架空の存在であったとしても、他者の性と心を、傍観者の位置から、身勝手に憶測し、捏造して、自分の性欲を解消する都合のいい道具にしているという後ろめたさがあるのだ。ましてや、現実にいる男性(芸能人など)で妄想する場合、もちろん当の本人が知ったら不快な思いをするだろうことや、肖像権の問題もあるのだが、同じ腐女子でさえWebサイトをみつけられない、みつけても内部を見られないようになっていることも多い。
腐女子の閉鎖志向・排他性は、こういった意識から生まれてくるところが大きいように思う。
加害者でも被害者でもある腐女子
腐女子が隠れるのには、いろいろな理由がある。しかし、それらは腐女子だけに当てはまることだろうか。腐女子が隠れなければいけないなら、世の大半の男性も、自分の妄想を隠しておくべきではないか?逆にいえば、世の男性が、ろくに包み隠していないのだから、腐女子とてそんなに覆い隠そうとしなくてよいはずではないだろうか。
だが、腐女子が隠すのは、自分たちも隠されなかったことによって嫌な思いをしてきているからだ。
男性が妄想する女性像を勝手に押し付けられ、ありもしない女性像を捏造され、主体的に欲情することのない、性欲の受け皿でしかない存在として扱われてきた、そのことへの嫌悪感が、鏡のように自分へ跳ね返ってきているのだ。しょせんバカな男どもと同じことをしているにすぎない、そういう加害者としての自覚が腐女子の隠れる美学にはこめられているのではないかと、私は思っている。腐女子が隠れるのは、精神的なものも含めた男性の露出行為に対する批判だと言ってもいいだろう。
そういう問題意識を、むしろ男性こそ腐女子と共有してほしいと思う。
しかし、腐女子のふるまいにも、批判されるべき点はある。
欲情する主体と客体が同じ性であるBLは、腐女子が女性の被害者性から抜け出すために編み出した装置だ。登場人物は男性であっても、BLは本来「女性のための」表現である。
ときどき、腐女子のWebサイトで「当サイトには男性同性愛的表現があります。嫌悪感を持つ方はお帰りください」といった注意書きがある。それを無自覚に書いてしまう腐女子に、私は違和感を持つ。本当に男性同性愛的表現に嫌悪感を持って帰る人も、たいがい酷い差別主義者だろうが、そのことに気付かず平然と、差別があることを認めるかのような書き方をしてしまうあたりに、BL・やおい表現が傍観者からの立場でされるという特殊性があらわれているような気がする。
「男性同性愛”的”表現」という表現には、けっしてリアルなゲイ男性を描いている訳ではない、という自覚があらわれている。ゲイっぽいけど、ゲイではないというわけだ。自分たちの書いているものを「なんでもかんでもホモにしちゃって」と卑下することもあるが、その「ホモ」も「ゲイ男性」と同義ではない。自分たちが描いているものは、あくまでファンタジーであり妄想である。そういう自覚がある。しかし腐女子は、自分たちの表現を妄想・ファンタジーだと意識するあまり、ゲイ男性が現実にいるということを忘れがちになっているのではないか。
はっきりと「BLはファンタジーだからいいけど、リアルなホモはちょっとねー」などと発言するとんでもない腐女子もいるが、大半の腐女子には、ゲイ男性を蔑む気持ちは全くない。それでも、自分たちの汚れた欲望から生み出された表現は、やはり汚れねじ曲がっていると考え、あえて差別的な用語をもちだすという人も多い。その言葉で蔑むのは、自分の描いたBLカップルだ。その中に自分はいない。自分は「腐女子」ではあっても「ホモ」でも「男性同性愛者」でもない。あくまでも傍観者だから、ああいった無神経な表現になってしまうのだろう。しかし外側からは、腐女子のそんな意識まで見えようはずもない。そうやって、差別を肯定する意識を垂れ流していることに、腐女子は気付くべきだろう。
逆に、腐女子の中でも、同性愛についての無知から、そこまではっきりとファンタジーとリアルを区別できず、混同している人もいる。
そうやって、安全な位置から差別を助長するような表現をしている腐女子も少なくない。
一昔前に流行したパターンに、こんな台詞がある。「俺は男なんか好きじゃない。でも、おまえのことは好きなんだ!」今でもたまに見かけることがある。同性愛のタブーを超える愛の深さを表している、それのどこが悪いのか、と思う人がいるかもしれない。しかし、よく考えてほしい。その台詞は同性愛がタブーであることを前提とし、「男が好き」な自分以外のゲイ男性を見下している。それでめでたくカップル成立となったところで、表面的にはゲイに見えても、彼らの意識はヘテロ(異性愛者)のままなのである。そんな生きづらさを、腐女子はゲイ男性に平然と背負わせてしまうのだ。
そういった例は、他にもいくらでもある。
また、ある男性の話だが、その人はゲイである自覚が生まれつつあった頃にBLを読んで、美少年でなければ男性と恋愛できないのだと思い込んでしまい、落ち込んだという。直接に差別的な表現が無くても、BLという表現が傷つけている人たちは確実にいる。
だが、一章でみたように、そういった自分の加害者性に気付いた腐女子たちは、表現を変容させ、多様化させている。
以前は「タブーを超えて燃え上がる恋」というパターンが多かったが、今は同性愛を禁忌として描くことは逆に少ない。むしろ「男は男に恋をする」のが当然という前提ができあがっている作品の方が多い。最初はヘテロとして登場する場合でも、あっけらかんと同性愛を受け入れていく。現実のゲイ男性が置かれた状況は、未だに厳しいが、BLの世界ではゲイ男性のユートピアが展開されていると言ってもいい。BLは社会の反映ではなく、腐女子の理想の反映である。一章で述べたように、BLには新しい社会の可能性があるのだ。
腐女子ってどう?って改めて
一章二章では、みんなが腐女子になった場合の良い部分、いいかえれば腐女子がもつ可能性の部分を、この三章では、今の腐女子が抱える問題点を考えてきた。確かに、腐女子自身の問題点だってたくさんある。しかし腐女子になったことで、腐女子にならなければ見えない社会の問題点が浮き彫りにされたとも言えないだろうか。だから私は、問題が山積みだという前提で、敢えて言いたい。
キモいとか言ってないで、みんな腐女子になっちゃいなよ★
腐女子になって見えてきた問題は、腐女子として解決していこう!
今まで述べてきたのは、腐女子のほんの一面である。あえて避けてきた話題も多い。
たとえば、一章でBLはジェンダー観・恋愛観・家族観を変えると書いたが、実はBLで王道と呼ばれるのは、女性的な受けが男性的な攻めに愛されて幸せになるという、異性愛規範べったりな展開のものだ。攻めには、よりかっこよく、より強く、より頼れる男性像が求められる。それは身体的にも、精神的にも、経済的にもだ。まるで白馬の王子様、まさに絵に描いた餅である。少年漫画のヒロインが往々にして男に都合が良いだけの女であるように、女性にとって都合が良いだけの男性像がそこにある。自分だけを愛し、庇護してくれる、けれど対等に扱ってくれる男がいい、という訳だ。ファンタジーとはいえ、なんてムチャな要求だろうか。
その部分だけみれば、腐女子になったところで、全く現状は変わりそうにないように思えるかもしれない。しかし、私が一章で書いたことを思い出してほしい。そういった古い観念を、まさに腐女子自身が変えていこうとしているのだ。王道はなくならないかもしれない。しかし、より多くの選択肢を腐女子はBLで表現しつづけている。
また、腐女子の中にはいろいろな性自認・性指向の人がいるとも書いたが、そういった人たちを異性愛女性である腐女子は全く認識していないことがほとんどだ。同性愛などマイノリティについての知識の無さから差別的な表現をすることもある。しかし、二章で書いたように、それに気付いた腐女子が、率先して変わり、新しい表現を生み出していくことで、どんどん腐女子の意識もBL世界も変わってきている。
腐女子は、隠れ、卑下することで、現代社会としなやかに折り合いをつけて生きていこうとする。そういう意味で、腐女子はリアリストだ。しかし、同時に理想の社会を描く夢想家でもある。
腐女子は、男性同士であっても王道を好む保守的な考えの持ち主のようにもみえる。しかし、それだけではおさまらずに、どんどん新しい可能性を飲み込んで、自分自身も社会も変革し続けている革命家でもあるのだ。
考えてから走るのではなく、萌えながら=走りながら考えるのが腐女子。そうやって今までも作ってきたし、変わってきた。これからも柔軟にしなやかに生み出し、変わっていけるにちがいない。それが、腐女子のたしなみだ。
だからこそ、みんなが腐女子になってしまうべきだ、と私は主張する。腐女子になった上で、まだ問題があるなら、それは腐女子の内側から解決していくべきだし、解決できるはずだと思う。外部から攻撃されないように隠れ潜んでいるだけでは、なにも変わらない。
腐女子が生き、腐女子が作る現代、腐女子が育てる次世代。その夢のような腐女子ワールドを想像してほしい。そして、腐女子になってみよう。かんたんなことだ。そう、レッツ腐女子★
II. 批判的な書評 掲載誌「SIGHT」
私は、この本の著者である文尾という人物と面識はない。しかし、これを読んで私は、面識がなくて良かったと安堵せざるをえなかった。そんな、筆者の人格を疑いたくなるような本である。
まず、本の題名からして、社会問題や教育を真面目に語ろうという誠意を感じない。おまえは本気で書いたのかと問いつめたくなる。小見出しも、はては本文まで、まるで読者をバカにしているかのようなふざけた文体で、腹立たしい事この上ない。ブログの延長線上のような文章には、学問として語ることへの逃げが見える。それは内容の甘さにも、確実につながっている。
そもそも、腐女子について語っていても、まったく言説に新鮮味を感じない。腐女子と教育という無理やりな取り合わせだけは、多少目新しさを覚えなくもないが、それ以外は、これまでに言われてきたことをくり返し、あるいは言い換えただけに過ぎないように思われる。この程度のことであれば、ブログで、もっと切れ味鋭い腐女子論客の筋の通った説明が読めるはずだ。
腐女子の定義にしても、筆者の無神経で不誠実な性格が表れているかのようである。筆者は、腐女子ということばには、異性愛女性以外も含まれるというのだが、それ自体が筆者の妄想ではないだろうか。少なくとも、私はそのような定義を聞いたことが無い。目新しさを狙うのはいいが、一般に認知されつつある流行りの言葉を利用せずとも、新しい言葉でも作るべきではないのか。
人としての不誠実さを感じるのは、それだけではない。たとえば、この本自体の存在である。いま、この筆者は腐女子という言葉を利用したと書いた。しかし、この本を読むと、腐女子は腐女子の存在を隠さなければならないと感じているとある。では、なぜ、わざわざこのような低俗な好奇心をあおるような本を出し、腐女子を裏切るのだろうか。しかも、あらわにされたくないだろう内面まで、恥じらいもなく暴露している。悪辣な趣味をしているとしか言いようがない。
性格はともかく、内容をと思うのだが、こちらもひどいものである。
なにより、全体を通して、根拠が薄い。この本は「腐女子」に関する記述が中心となっている。腐女子とは男性同士の性愛描写が中心となるボーイズラブ(BL)を愛読する者のことだが、冒頭で腐女子は多様だなどと大言壮語するならば、データくらい取るべきではないのか。どのように多様なのか、筆者の狭い現状把握だけでは、全く見えてこない。筆者が言うように、本当に同性愛者や両性愛者、性同一性障害者などがいるのだろうか。筆者が両性愛者であるというだけでは、なんの根拠にもなっていない。異性愛女性の腐女子は、自分たち以外の腐女子の存在を視野に入れていないと避難しているが、そもそも視野に入る可能性があるほど存在しているのか、なにより、異性愛女性以外の人々が腐女子と自認しているかどうか、私には疑問である。それ以外の趣味嗜好にしても、筆者の伝聞でしかない。
また、多様と言った口で、筆者個人の経験を一般に広げ、一定の腐女子像を作り上げてしまっているのはどういうことだろう。まるで、腐女子といえば筆者を指しているかのようである。私には受け入れがたい腐女子像だ。
しかも、その作られた腐女子像は、あまりに理想的すぎる。現状を知らない人間であれば納得するのかもしれないが、腐女子の問題点は、最後にほんの少し語られるだけであり、それさえも大したことではないかのように見過ごされてしまう。腐女子は、そんなに誰もが教育問題や社会問題に敏感で、旧態依然としたそれらを志も高く変革していこうとしているものだっただろうか。私は、そんなに腐女子が素晴らしい存在だとは、寡聞にして知らなかった。筆者である文尾氏や、文尾氏のご友人たちは、そんなに民度が高いのだろうか。だとしても、それを腐女子全体であるかのように語るのは、いかがなものだろうか。
腐女子は多様だと言っておきながら、十把一絡げで「腐女子」と呼んでしまう粗雑さは、論理にまで影響しているようだ。
第一章で述べられている家族観など、無責任も甚だしい。筆者はBLに出てくる風変りな家族を列記しているが、そんな家族が本当に良いとでも思っているのだろうか。BLとはファンタジーでしかない。それは筆者も書いていることだ。それをなぜ、そのまま現実にあてはめようとするのだろう。うまくいくはずなど無い。妄想と現実を混同している腐女子を筆者は偉そうに批判しているが、まさに筆者がそれである。日本の社会で生きていくために、また社会の秩序を保っていくために、BL内の家族観などは百害あって一利なしだ。
愛があれば、などというのは、世間を知らない子供がいう言葉であって、いい歳の大人が本気で言うようなことではないだろう。筆者は三十路を過ぎたとのことだが、私生活が思いやられてならない。
特に、こどもの利益・福祉を無視しているかのような家族の例が、あまりに多すぎる。こどもは親の下で、愛をもって育てられるべきだと筆者自身も書いていながら、なぜそれが矛盾した家族観であるとわからないのだろうか。筆者の意見は、まったく心に響かなかった。
また、恋愛観にしても、なぜこれまでの男女の恋愛を否定しなければならないのだろうか。これまでの男女の恋愛には、女性への抑圧的な視線が感じられてしまう、とあるが、それを変化させるのが、なぜ腐女子であり、BLでなければならないのか、全く理解できない。
BLで表現されているのは、あくまでもファンタジーであり、逸脱だ。同性愛を否定するわけではないが、少なくとも男女の恋愛をおしのけて、社会の中心になる必要など、全くない。腐女子自身も、男女の恋愛を投影しているのだとしたら、なにを変える必要があるのだろう。確かに、女性の権利を認める方向で社会は動いてきた。それによって、恋愛観も少しずつ変わって入るだろう。だが、それ以上に壊す必要などあるのだろうか。
話は、腐女子から少子化にまで及ぶ。腐女子は、二次元の男性と疑似恋愛する、晩婚化や少子化に拍車をかけている張本人だというのが、私の考えだが、筆者はまるっきり反対の意見を述べる。腐女子の理想とする家族の形が認められれば、少子化はくいとめられるというのだ。先ほども根拠が薄いと書いたが、どうしてそう言えるのか、まったく私には理解できない。それに、妊娠中絶の話はたしかにショッキングだが、腐女子と何の関係があるのだろう。
筆者は、いわゆる三角関係まで新しい関係性だと肯定的にとりあげているが、愛する人が自分以外の誰かと恋愛し性行為をすることに、筆者は抵抗を感じないのか。そんなものは、それこそ本物の愛ではない。
性自認の話にしても、腐女子の話をする必要があったのだろうか。そのようなことは、すでに言い古されたことであり、腐女子の話をしたいがためだけに持ち出された話題のようにしか思えない。
そもそも、教育と社会を革命すると言っておきながら、腐女子を語ることに終始しているようにしかみえないのはどういうことだろうか。
腐女子になる程度のことで、そんなに簡単に問題が解決すると、本気で考えているのだろうか。
第二章で腐女子を先生にしようなどと言いだされても、読者としては開いた口がふさがらない。その、あまりに唐突で無理やりな設定は、筆者が塾で国語科の講師をしたことから生まれたようだが、そんなごくごく私的な体験を、乱暴に演繹する必然性がいったいどこにあるのか。腐女子なら誰もが教育する力を持っているなどというのは、筆者の言う多様性を無視した論理であり、まるっきり破綻している。
それに、本当に腐女子が教えるとしたら、内容が偏ってしまうだろうことは、私でさえ想像に難くない。当事者である筆者に、その程度のことがどうしてわからないのだろうか。性行為の詳細な描写もあるBLをテキストにするなど、あまりにも無謀すぎる。
第二章の最後では、教育のあるべき姿を熱く語っているが、まったく面白みのない理想論に思われる。これまでの教育でも、そのようなことを目指す教師はずっといた。そのための授業の工夫など、いろいろな研究も既になされている。それらをふまえた上での提案にしては、あまりにお粗末としか言いようがない。
第三章の結論も、強引過ぎるものである。まるで、腐女子は社会を変えるために存在しているとでも言いたげだが、そんなことはありえない。世の腐女子は、別に学校教育や社会の枠組みを変えるために腐女子になったわけではない。そんなことは構わず、好き勝手に消費しているだけではないか。欲望のままに消費する、その行為の中から必死になって肯定的な要素を見つけ出さなければならなかった理由は何だろう。こんなに腐女子は世の中の役に立つと示したかったのか。世間への後ろめたさの裏返しなのだろうか。
腐女子の問題点にしても、過小評価しすぎではないか。腐女子にはもっと、醜い面、いやらしい面がたくさんある。それらを敢えて書かなかったと文尾氏自身書いているが、それは卑怯ではないのか。
最終的に、腐女子の方が自らを変える力・自ら変わる力をもっている、だから腐女子になるべきだという結論なのだろうが、その変革する力は、なにも腐女子だけがもっているわけではない。人間ならば、誰しも気付かぬうちに、少しずつ変わっている。それくらい、誰にでもわかることではないのだろうか。
総じて、腐女子にこだわりすぎた、ふざけた評論だという感想しか、私にはもてなかった。
もし反論があるならば、ぜひ文尾氏の意見も聞きたいと私は思っている。その時は、のらりくらりと逃げず、真面目にこたえていただきたい。
しかし、この怒りまでが、文尾氏の目論見通りだとするなら、口惜しいがしてやられたというしかない。いろいろな意味で、とんでもない新人が現れたということだけは、否定できない事実のようだ。