はじめに
本書が目的とするのは、現代はポストモダン社会であるという前提の元で、「神」「超越性」というプレモダンなものが復活してきているのではないか、という仮説の検証である。そのために、ポストモダン社会においてしばしば好まれるメタフィクションと呼ばれる物語類型をとりあげ、メタフィクション内にある種の「超越性」が必然的に埋め込まれているのではないかということを検討していく。
第一章において、東浩紀の議論をベースにしながらポストモダン社会について定義を行い、第二章において、西洋哲学が長い時間をかけて発展させてきた「超越性」の概念についての考察を試みる。第三章でメタフィクションについて語られている言説を概観した上で、第四章では個別の作品分析に移りたいと思う。最後にまとめとして、第五章でデカルトによる神の存在証明を見ることで、多少乱暴ながらメタフィクションと超越性に関して、ひとつの視座を提供したいと考えている。
第一章 ポストモダン的現状の考察
東浩紀が『動物化するポストモダン』で指摘したとおり、現在は「ポストモダン」という状況下にある。ポストモダンという状況を、リオタールにならって定義づけるならば、「大きな物語」が終焉した世界と言うことができる。つまり、モダンからポストモダンに移行するにあたって、「大きな物語」というモダンを支えた言説(幻想)が失墜したということである。しかし、リオタールの言う「大きな物語」の終焉という言説は、今回取り上げる「超越性」の問題とは異質な問いであるにもかかわらず、混同されているのではないかと私は考えている。
そもそも近代という時代を西洋哲学史上で位置づけるならば、「神」を殺害し、その反面「人間」をクローズアップして、人間の理性でもって社会をより進歩発展させることができるという考え方である。その萌芽をさかのぼるならばやはり「我思う故に我あり」と主張することで、「思考する主体」としての人間を取り上げたデカルトにあり、カント・ニーチェを経てヘーゲルによって完成されたといえる。
一方のリオタールは1984年に発表した『ポストモダンの条件』において、大きな物語の具体例として「《精神》の弁証法、意味の解釈学、理性的人間あるいは労働者としての主体の開放、富の発展」をあげ、それらをみずからの正当化のために用いている社会のことを《モダン》と呼び、それらに対する不信感が芽生える社会のことを《ポストモダン》と呼んでいる。ここで明らかになるのは、リオタールは、西洋形而上学すべてを否定しているのではなく、あくまで近代という時代を支えたイデオロギーのみを槍玉にあげているということだ。リオタールと同じくポスト構造主義者で知られるジャック=デリダが、脱構築という言葉でロゴス中心主義に支えられた西洋形而上学そのものを問いに付したのと、実はまったく異なる試みである。
そして、このようなリオタールの指摘するポストモダンという状況のなかで、ある種の「超越性」(=神)あるいは「宗教性」のようなものが呼び戻されているのではないか、ということを検討するのが本書の目的である。
第二章 超越性および宗教性について
まず指摘しておかなければならないのは、西洋哲学史において、「神」と換言することもできる「超越性」と「宗教性」とはまったく異なる概念だということである。神とは、プラトンのイデアを発祥とする概念で、ある種の完全性・普遍性・絶対性の象徴である。言い換えると、なんらかの「完全性」が存在すると仮定したときに、それをを「神」と名づけましょう、ということである。
それに対して「宗教的」なものとは、もっと世俗的なものである。キリスト教は世俗化されたプラトニズムである、というのは哲学史の教科書を紐解けば必ず出てくる。プラトンのイデアが「超越性」を志向するものであったことは先に述べた。しかし、イデアという概念は高度な抽象化を必要とし、日々の生活に勤しむ人民には受け入れがたい概念である。そこで、キリストという人間を地上に送り出し、「私を信じなさい(さすれば救われる)」という教えを説くことで、「神」という概念を広めていったというものである。そうしてシステマティックに構成されたものが宗教であり、その意味で宗教とはきわめて世俗的・社会的なものである。
さて、このように「超越性」を仮構する論の立て方は、西洋形而上学の歴史では当たり前のことであった。しかし、この考え方は近代という時代によってもろくも崩れ去る。それは、「神」のような完全性は持たないが、不完全ながらも理性をもつ「人間」をクローズアップしてきたことによって変化したものだ。
「人間」というものがいつからクローズアップされるようになったかということについて、ある一点を明確に定めることは不可能である。しかし、ルネッサンス期やデカルトの登場が大きな意味を持っていることは間違いない。また世界史的にいうならば、1648年のウエストファリア条約を分水嶺とする、「国民国家システム」の誕生前後ということもできる。その後に登場したニーチェの「超人」、あるいはヘーゲルの「絶対精神」という考え方などが、近代という時代を特徴付ける。これらは、神という「超越的」な対象ではなく、人間の側が努力を重ねることによって到達すべき対象であることを指摘しておかなければならない。
今の私たちにとって、「国民国家システム」あるいは「人権」「主体」という概念は自明のものである。しかし、それが自明となったのはせいぜいここ数百年の話で、それ以前にはここまで述べて来たような「神」の概念が当然のように生きていたのだ。
現在はかなり理解が進んでいるためにあまりあしざまには言われなくなったが、「中世」を暗黒時代と呼ぶ風潮が過去にはあった。たとえば「魔女裁判」といったものが公然と行われるなど、いまのわれわれの「理性」をもってしては「ありえない」ことを当たり前のように行っていたのだ。しかし、たとえば後世の人が見たときに、「人権」や「国民国家システム」が「ありえない」概念とみなされる可能性は、決してありえないことではない。むしろ、数百年後には、二度も世界的大戦を経験した「野蛮な時代」と名指される可能性だってあるのだ。
私が問い直したいのは、近代という時代がいかに残酷であったか、ということではない。ただ、今の私たちが当然とみなしているさまざまな概念に対して、それは残酷と呼ばれうるかもしれないと、「もしかしたら私たちが思っているほど当たり前のものではないのではないか?」という可能性を常に担保しておきたいし、することが哲学の役割だと考えているのである。
そして、私が本書の中で問いに付したいのは、近代という時代にまったくアナクロニズムなものとして切り捨てられた「神」「超越性」あるいはそれを世俗化した「宗教的」なものが、ポストモダンと呼ばれる現状の中で復活してきているのではないか、ということである。「大きな物語が終焉」したポストモダン。だがしかし、リオタールの定義によって終焉させられたものは、実は「近代」という時代を支えた「物語」たちのみであり、超越性の象徴たる神は、近代という時代を息を潜めて生き抜き、再度の登場を果たしているのではないかと私は考えている。
第三章 メタフィクション
ポストモダン社会において超越性が復権してきているのではないか、という仮説を検証するために、私はポストモダン社会で議論の対象となるメタフィクションというタイプの物語類型を取り上げたいと思う。パトリシア・ウォーの1984年の著作、『メタフィクション―自意識のフィクションの理論と実際』の中で、「メタフィクションとは、フィクションと現実との関係についてさまざまな問題を提起するために、人工作品としての自らの地位に自意識的に、そして組織的に注意を向けている、フィクションの書法につけられた名称」であると定義している。言い換えると、フィクションの創造とフィクションの創造に関する陳述とを、同時に行うことである。例えば映画内映画であるとか、小説の中に著者が顔を出すような作品もその中に含まれる。もちろん、ポストモダンの時代に限らず、メタフィクションと分類される作品は作られてきた。古くはセルバンテスの『ドン・キホーテ』などもメタフィクションの一種と言われる。しかし、物語を組み立てているシステムを批判的に問いなおす試みが、これほどまでに積極的になされるのはポストモダン特有のあり方であると言わざるを得ない。
なぜ、ポストモダンにおいてメタフィクションがかくも好まれるのか、ということは一考に価する。メタフィクションとは、理論上・言語上・文学上・ジャンル上の暗黙の約束事を意識化し、かつ転覆してみせる振る舞いであるため、そのような約束事がすでに既知とされたなかで、それを批判的に読む試みであり、また批判的に読む読者の存在をあてにしなければならないものである。「大きな物語」が終焉したポストモダン的状況において、「世界」は人間に対して受動的に与えられるものではなく、「世界」に内在しながら自らが構築している、考え方が登場してきた。その結果、物語をメタレベルで解釈すること、メタ的に読解することへのハードルが極めてさがったためではないかと私は考えている。
しかし、このようなメタフィクションとよばれる物語類型の中に、ある種の「超越性」が不可分のものとして埋め込まれているのではないか、特にオタク系文化と呼ばれるあるオタクたちに向けられた作品群のなかに、それが顕著なかたちで現れていると私は考える。どういうことか、例をあげて説明していきたい。
第四章 作品分析
本章で、具体的な作品分析に移りたい。取り上げるのは、宮崎駿のアニメーション映画『風の谷のナウシカ』、谷川流の小説『涼宮ハルヒの憂鬱』、PCゲームの『ひぐらしのなく頃に』の3作品である。いずれも、いわゆる「オタク」と呼ばれる人々の間で大変人気の高い作品である。
第一節 『ナウシカ』にみる超越性
まずは、物語のなかで描き出される「超越性」とはどのようなものかを考えてみたい。ここで取り上げるのは、1984年に公開された宮崎駿のアニメーション映画、『風の谷のナウシカ』である。ここで取り上げるのは、あくまでアニメーションの『ナウシカ』であり、漫画ではないことを断っておかなければならない。私は、漫画版はともかく、アニメーション映画の『ナウシカ』は大変問題のある作品であると考えている。
ストーリーは、「文明を発達させて自然を征服していった人間たちは、最終戦争を引き起こし、瘴気と呼ばれる有毒ガスを発する「腐海」を生み出してしまう。しかし、人間たちは腐海となんとか共存しながら生きている。「風の谷」という腐海のほとりに存在する小国の少女、ナウシカは大国との戦争、腐海との戦いを切り抜けていく。」というものである。
物語中で、ナウシカは幾度も困難に遭遇する。しかし、ナウシカは決して逡巡しないし、間違わない。大の大人が逃げ惑うところを、ナウシカは絶対的な自信を持って選択を行い、かつそれが常に正しいという立ち位置にある。
なぜならばそれは、ナウシカは苦しみ悩んで生きる「人間」の形象ではなく、その存在そのものが世界の成立根拠となっている、「神」のポジションに立っているからだ。ストーリーを進めていくためにキャラクターが要請されているのではなく、ナウシカというキャラクターの存在が、この物語を支え、ストーリーを進展させる。このようなキャラクターの登場が、東浩紀が主張する「物語から自律するキャラクター」の原型ではないかと私は考えている。
ここで私が問題だと考えているのは、そのような役割を負わされるに当たって求められた形象が「女の子」であるということだ。「男の子」が自分の人間としての悩みや逡巡を棚上げし、自分とは異なる他者(=女の子)に対して、絶対的に強くたくましく間違わない存在をとして夢見ているように私には思える。
ただし、宮崎駿自身が、「女の子」にそのような超越的神の立場を押し付けることにまったく逡巡がなかったわけではないと私は考えている。ナウシカを作る以前、宮崎駿が監督したTVアニメ「ルパン三世」の最終話「さらば愛しきルパン!」において、ナウシカの原型とも言われている小山田マキという少女が登場する。そのなかで、「お前のやったことは人殺しだよ」と銭形(=後に明かされるがルパンの変装)に詰め寄られて、「でもほかに仕方がなかったの」と言って頭を抱えて悩んでしまう。
なぜ宮崎駿が「ナウシカ」において、人間が通常もつべき逡巡を棚上げし、超越的存在に物語を預けてしまうという振る舞いを取ったのか、ということについては一考が必要であるが、この「超越的存在に物語を預けてしまう」という振る舞いは、その後のオタク系文化に代表されるメタフィクションを分析する上できわめて有効な視座を与えてくれる。
『ナウシカ』自体はメタフィクションではないが、物語内にジレンマを抱えている。それは、世界にマイナスの影響を与えるとみなされているもの(=腐海)が、世界を浄化している点である。このジレンマを解決するために、単純に少女に仮託された超越的神の存在を持ち出すのは物語づくりにおける怠慢とも思えるが、それがその後のストーリーありきではなくキャラクター主導型の作品への道を開いたと言える。その意味で、このアニメーションが与えた影響は無視できないものである。
第二節 涼宮ハルヒという神
ついで、2003年に角川文庫から出版された谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説を取り上げたい。この作品も、小説からアニメ化・漫画化されて人気となった作品である。この『涼宮ハルヒの憂鬱』は、読み手にきわめて近い立場であり、物語を客観的に眺めるキョンの存在を抜きにして語ることは出来ない。キョンのみがフルネームを明かされていないというのも示唆的である。キョンは、代替可能な読者の表象形態であり、あたかも読者が物語の中に入り込んだらこういう振る舞いをするであろう、という想像の具現化である。
キョンは、物語内のあたかも特権的立場であるかのようにふるまう。わけわからない言動を繰り返すハルヒに対して、冷静に突っ込みを入れる立場である。だが、その突っ込みをいれる立場であるキョンすら、実は「ハルヒと言う神」が生み出した妄想の世界の住人なのではないか、という問いが提示される。それは小泉が提唱するこの世界の成立に関する仮説でしかない。しかしその仮説に従えば、キョンは、自分を作り出したかもしれない神たる存在を客観的に見ているような気になっているあわれな道化と言うことも出来るのである。
この物語のメタフィクション構造を支えているのは、想像上の読者を具現化させた存在が物語中に含まれることである。だが、キョンという存在が物語中で成立するためには、そのキョンを作り出したかもしれない「ハルヒ」という超越的な存在が欠かせないのである。
このように、『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説は、物語内のメタフィクション構造に満足してしまい、そのメタフィクション構造を支える世界についての考察に関しては、涼宮ハルヒという「神」の存在で片付けてしまっているのである。キョンという物語内読者を含むメタフィクションは、「物語内読者」を生み出す契機を不問とする。つまり、キョンは、自分がハルヒによって構築された(だけ)の存在かもしれない、という意識にいたることは、決してない。そこをあえて隠ぺいすることによって、メタフィクションという物語構造は保たれているのである。
言い換えよう。メタフィクションを構成する想像力は、確かに、その「物語」に対する批判的な視点を提供する。しかし、「この物語に対する批判的な視点を提供する視点」を問うことはない。むしろ、そこはブラックボックスとして処理してしまうのだ。そしてそれが、ハルヒのもつ「神」性なのである。
「ハルヒ」というキャラクター的に魅力的で自律した存在に、物語の存在根拠そのものすらゆだねてしまうという構図は、宮崎駿がアニメ「風の谷のナウシカ」でナウシカにおしつけてしまったことの延長線上に関係にあるのだ。
第三節 解決を必要としないミステリー 「ひぐらしのなく頃に」
ついで取り上げたいのは、「ひぐらしのなく頃に」というPCゲームである。雛見沢という田舎の村で、毎年起こる連続殺人事件。これらは、「オヤシロさまのたたり」として処理されている。このゲームは古手梨花という少女をめぐり、彼女が殺されずに6月を超えるまで繰り返し繰り返し殺人が演じられ続ける。その何パターンかの物語が、「鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」などで徐々に明らかにされる。
この物語は、最終的に「オヤシロさまのたたり」は、雛見沢にある診療所が引き起こした惨劇ということで、「人間的な解決」法を提示されている。しかし、この物語において一番重要な点は、ここではない。
第四部「暇潰し編」を終えた段階で、作り手の竜騎士07は次のようなコメントを乗せる。「いまこの段階にいるあなたが一番楽しい読者である」と。
つまり、連続殺人事件が「解決しない」ままにおかれている、このきわめて緊張感の高い状態を指して、作り手はここがもっとも「クライマックスの部分である」と暴露するのである。通常の物語ならば、トリックを見破り犯人が暴かれ、カタルシスが解消させる瞬間こそが推理小説のもっともすばらしいところであるはずである。だが一方、この物語ではそのような「人間的解決」をなしてしまうことを、どちらかというと余計なこと、余分なことだと考えているふしがあるのだ。
つまりここでも、「人間的なもの」が超越的なオヤシロさまのたたりを解決したという点ではなく、「超越的なもの」に身をゆだねた状態のことを、「もっとも楽しい状態」と記している。このゲームにおいては、「人間的な解決」法というのはもはやあとづけでしかなく、むしろそれを「描かないために引き伸ばされ続けた」物語なのである。物語の解決編において、ゲーム中で描かれた「以外」にも、あまたの物語が存在することが示唆されている。それが描かれないのは作り手の物理制約上の問題でしかない。この物語は非常に「ポストモダン」的なパラレルワールドであるが、このばらばらなパラレルワールドを支えるのは、それらすべての記憶を持って「生き続けさせられる」古手梨花の存在である。
第五章 まとめ
私は先ほど、メタフィクションが好まれる理由として、「大きな物語」が終焉したポストモダン的状況において、特権的な視点が消滅したために、物語をメタレベルで解釈することへのハードルが極めてさがったためではないかと仮定した。しかし、このように、物語をメタレベルで解釈する、批判的な読み方をさらに先鋭化させるとどうなるか。「批評的に見る」ことを批評的に見るという入れ子構造となり、結果、「批評的に見ることを定義上許さない存在」への回路を開いてしまうことになるのではないかと私は考えているのだ。
ポストモダン的現状において、さまざまな新興宗教の発展や、イスラム教・あるいはキリスト教原理主義の台頭が多く取りざたされている。それは、「近代」という時代をささえた「大きな物語」たちが終焉した結果、プレモダンなもの、「超越的」なものを思考の範疇に入れることが「理性的」に見て許されることが証明されつつある、ということではないかと私は思う。
近代的なものから、批判的に距離をとること。プレモダンなものをアナクロニズムと切り捨てずに、有意義な帰結を導くようつとめること、それが私たちに課せられた使命なのではないかと私は考えている。
最後に、「われ思うゆえにわれあり」と主張し、近代的自我への気づきをうながしたデカルトによる、神の存在証明を見ておきたい。これはデカルトの『方法序説』第五部に書かれている。デカルトは、感覚などを自分を裏切るものであるから根源的なものではないと考え、あらゆるものを疑ってかかってもなお疑いきれないで残るものとして、自分自身の存在をあげた。しかし、そのような自分自身は間違いうる「不完全」な存在であるが、「神」という完全な存在を思惟することはできる。「不完全」なものから「完全」なものが生まれることは、「無」から「有」が生ずることと同じようにありえないことだと考え、「完全なもの」つまり「神」は存在する、という結論に至ったのである。
多少乱暴な議論にはなるが、メタフィクションについても同じようなことがいえるだろう。物語世界はそれだけで完結したものではなく、その外側の世界が存在し、それすらも物語内部に取り込んでしまったものがメタフィクションである。だが、それでもその外側、その外側とエンドレスにたどることができてしまう。永久にこの物語を構成しているものが見出せないとするならば、それはつまり、「超越的なもの」「神」の存在をある意味で肯定せざるを得ないということである。
ポストモダンにおいて、メタフィクションが隆盛し、また「超越的」なものが回帰してきたのは、決して偶然でも、ましてや近代的知性の退化でもないと私は考える。むしろ、近代的知性を極限までおしすすめていった結果、ある「超越的」なものへと思考をジャンプさせなくてはならない一点が存在するのだと私は考える。「超越的」な思考をもっと内面化することによって、「宗教的」なものからはもっと適切な距離を保つことができると私は考えているし、社会がそのような方向に進むことを切に願っている。
書評「SIGHT」
今回取り上げるのは、筑井真奈の「メタフィクションのはらむ超越性――ポストモダンにおける神の復権」という批評本である。まだ24歳と若手の、しかも女性で哲学に関心がある書き手の存在はきわめて珍しい。たとえば先般『乳と卵』で芥川賞を受賞した川上未映子は、カントと永井均の影響を受けていると述べているが、これは希少な例である。本誌でのインタビューによれば、筑井真奈は大学時代にライプニッツという17世紀の哲学者の思想に出会ったことが大きな転換点であるようだ。
ライプニッツ、カントともいわゆる流行の現代思想とは違い、むしろその中で乗り越えられるべき存在として扱われることが多い哲学者である。カントは倫理という側面から注目を浴びることもあるが、ライプニッツは、日本での研究者も決して多くはなく、入門書も満足に揃っているとは言いがたい。哲学をわずかでもかじったことのある研究者ならば決して避けては通れない人物にも関わらず、一般的には「マイナー」とみなされる哲学者である。
にもかかわらず、2000年代において、このような哲学者たちの影響を受けたという新しい書き手の存在が登場することに、哲学の新しい流れを感じないわけにはいかない。ことに、一般的に女性は男性より抽象的な思考が得意ではなく、哲学には向かない、と言われることは多くある。実際、哲学をバックボーンとして持つ女性の書き手を何人思い浮かべることができるだろうか。偏見かもしれないが、女性は哲学的な理解を、哲学の言葉ではなく小説などの異なる形で発露するほうが得意なのではないかと思ってしまう部分はある。筑井真奈の文章からも、多少背伸びをして男性に負けないようにと抗っている側面が見えないでもない。例えばゼロアカ道場第一回、第二回で書いたような書評、エッセイのほうがのびのびと書いているという印象もある。
筑井真奈が哲学を志した理由は、おそらく本書のメインテーマとなっている「超越性」への深い関心によるものだと思われる。もし女性に哲学が好まれない理由があるとするならば、この「超越性」に対する根源的な「理解できなさ」があるのではないかと考えられる。「超越性」よりも、もっと日常に則した経験論的な立場のほうが女性は取りやすいのではないかと思う。それゆえ、彼女がこの「超越性」への関心から哲学に向いたことは大変興味深い。筑井真奈の文章からは、宗教的なものの社会的意義を超えて、まさに信仰に近い「超越性」への傾倒が見られる。もしかすると彼女は何らかの宗教的経験をしたことがあるか、周囲に宗教的な立場を持った人がいるのかもしれない。といっても、特定の宗教に加担しているというより、西洋形而上学を極端に教義化し内面化してしまったとでもいうのだろうか。
しかし、筑井真奈の哲学理解は、はっきり言ってしまえば、あまりに大雑把である。近代という時代を支えた精神について、彼女なりの強い問題意識があることはうかがえるのだが、おそらく本格的に哲学を研究している人から見れば、多くの非難を浴びるであろうことは間違いない。たとえば、哲学史において、「神」という概念も決して一様ではない。創造主としての神を世界から分離する立場もあれば、神=世界とする立場もある。「完全性」という側面だけで切り取ってしまっては、「神」概念の豊穣さも消えてしまう。また、キリスト教が国家権力と対決しながら徐々に受け入れられていった経緯や、キリスト教内部での論争なども完全に無視している。しかし、大雑把な理解だからと言って、それらの瑣末な間違いばかりを取り上げて非難するのはあまりよろしくない。世の中の多くの人は、哲学に関して、世界史や倫理で学んだ知識しか持っていない上、「私の人生哲学」などと言った、アカデミックな文脈とは違った意味合いで哲学という言葉が使われることが多くある。それでは、世の中の人々に哲学を伝えること、面白さを伝えることにはならない。専門家が瑣末な問題にかかりきりになっている間に、多くの人に魅力のない、わかりづらい哲学書ばかりが増えていくという結果になっているのは、哲学にかかわっている人間ならば感じることであろう。
瑣末な問題よりも、大雑把に哲学を理解しみずからの中に取り入れ、その上で導きだされた結論を利用するというあり方には長けている、その点でも彼女は評価されるべきだと私は考える。勉強不足な点はあるが、ポストモダンにおけるプレモダンの復活という目の付け所は興味深いし、さまざまな社会学的文脈でも語られているテーマでもある。
しかし、それならば、なぜ彼女はそれを語るためにオタク文化を用いるのであろうか。東浩紀のゼロアカ道場というイベントから誕生した書籍であるから、彼女自身も東浩紀の影響をたぶんに受けていることは想像に難くない。実際、この書籍の章立てにしても東浩紀が講談社現代新書から出した『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』と酷似していることからもそれはうかがえる。冒頭に問題意識を提示し、前半で理論を提示し、後半部分で作品論に移る。章立てとして新しければいいと言うわけではないが、彼女自身も自分が東浩紀の劣化コピーであることを、強く認識しているあらわれなのだろうか。そういえば東浩紀も、東京大学駒場キャンパスの出身だった。
たとえば東浩紀と北田暁大が編者となって出版した『思想地図』で、川瀬貴也という社会学者は、終末医療の問題からポストモダン社会における宗教的なものの侵入を取り上げている。オタク系文化に限らずとも、ポストモダン社会における宗教的なものの侵入はさまざまなところに見られるわけで、あえてオタク系文化を取り上げる必然性はどこにあるのだろうか。さらに、オタク系文化を語ることで、大上段に振りかぶった論考が、東浩紀と同様、これから彼女がやりにくくなるのではないかという心配もある。
つまり、オタク系文化への関心がある読者層に向けられたこの書籍では、オタク系文化外の人への訴求力は高くない。せっかくの哲学をバックボーンに持つ書き手としての力を、オタク系文化だけではなく、より広い文脈で活用できるのではないかと思われてならない。