戦わなくなった人間が増殖している。
現代人、ことに若年層に多い非戦闘人間の彼らは戦わなくなったのか、それとも戦えなくなったのか。人間行動のフリーズ現象――能力は決して足りていないわけではないのに、あまりの欲求の多さに突然動作を停止し、その後動こうとしない彼ら。
この現象は、現代社会を取り巻く環境も影響しているといえよう。ゆとりという言葉で最もよく表現されるが、フリーズ現象は少しでも辛かったら休めばいいという逃げを推奨してきたここ数年の報いといえないだろうか。彼らはとかく攻撃を嫌い、癒しや安らぎを好む傾向にある。
肩の力を抜いてリラックスして生きるという、当人のためを思うように見せかけた偽善的な推奨を完全批判し、明治維新、世界大戦後以来の激動期を迎えるとすらいわれる今こそ、戦国時代さながらの臨戦態勢で臨むべきだと私は考える。恋愛に代表される対人関係の希薄化、そして立体思考を持てなくなった彼らの取った行動手段などを分析し、フリーズ現象の理由を白日の下に晒すことを本書の目的としている。
なお、本書は章の代わりにGroundを用い、始まりをGround7とし、最終的にGroundZEROへと落ち込んでいく入れ子式をとる。また、ページ番号はカウントダウン方式とする。これは本書がハウツー本や自己啓発本的な知識の増量と拡散を目的としているわけではなく、一個人の中央心理への収束を意図しているからである。
コンセプトは「救いも癒しも求めない――超攻撃型聖書(バイブル)」。
以下、各章を要約する。
Ground7 愛は地球を巣喰う
絶対善としての愛が滅びようとしている。
誰一人として疑うことのなかった絶対善としての愛。古代から愛は世界の中心ではあったろうが、近年それはさらに加速度を増し、純愛信者なるものが指数関数的に増加したかのように見えた。だが、純愛信者が増える一方で、現実の恋愛から遠ざかってしまった者達も少なからず増加し始めたのである。
オタク――彼らはその代表のように扱われている。そして、彼らが好んだセカイ系という世界観、そこに私は絶対善としての愛の崩壊を見るのである。
セカイ系は一見、愛を描いているように見える。型どおりのキャラ達の世界を揺るがす大恋愛。現実の恋愛から距離を置きがちな人達(=オタク)によって、純粋培養な愛だけを描くセカイ系が何故これほどまでに指示されたのか……彼らは感づき始めたのである。愛が決して世界を救わないであろうこと、そして愛が絶対善ではないことを。
実際、セカイ系は愛を描いてはいない。あえて言うならば、擬似的恋愛感を描いているのである。
スリルが恋愛の発生する瞬間に多いとはよく言ったものだが、セカイ系のキャラ達は必ずといっていいほど、秘密を有している。秘密を共有し、右往左往するスリルから生じる一体感……これがラブストーリーに見えているのである。よって、セカイ系のキャラに美少女と凡庸な少年という組み合わせが多いのにも納得がいくだろう。彼らは見た目から入るわけではなく、秘密を共有するスリルによって恋愛感情に似たものが生じているのである。
恋愛は今後、癒しや救いではなく、罪の共有へと展望していくと私は考える。私達は従来の恋人として――共犯者を探すことになるのである。その秘密が世界の終末に関わるのか自らの性癖なのか、それは個人差ということであえて問うまい。ただ、秘密の共有にこそ価値が生じるのである。
最早、愛は滅び行く存在にある。資本主義に搾取される恋愛だとか、モテ系だとか議論している時点で、そもそも旧来の価値を引きずっていることに気づくのも、もうそんなに先のことではないだろう。
所詮人は自分以上に人を愛せないのだ。そういう意味で愛から開放されることはないだろうが、私達が他人を求める意味、それがこれから変わってくる。
オタクに代表される恋愛落伍者――例えるならば、彼らは最新のソフトなのである。それを、何十年も前のパソコンに入れたところで、ソフトが動き出すはずはない。それゆえ彼らは従来の恋愛システムでは動かない、否、動けないのだ。
たくさんの人間と恋愛関係を結ぶことを良とする時代は終わろうとしているのである。そもそも秘密はたくさんの人間に漏らすものではない。むしろ、広まることは危険ですらある。よって、一人で十分なのだ。
いってしまえば「運命の人」――彼らがその存在を切に願うのも、時代の流れから考えれば至極道理なのである。
Ground6 軽オタ死すべし
オタクが増えた。これは気のせいでなどではない! オタクという言葉に過敏になりすぎているせいだとか、コンテンツ産業が異様にもてはやされているからなどでは決してない。
オタクのファッション化である。とうとうここまできてしまったのかという感がなくもないが、オタクという言葉はなかなか便利だ。本来侮蔑的な意味を含めた呼称だったことを逆手にとって、自らをオタクと自称することで卑下してみせる。もしくは、なんとなく現実と距離のある人間を気取るための安易なツール。
そんな彼ら、軽度オタク(軽オタとでも呼称しておく)に共通していることとして、踏み込む気もないのに踏み込んでいるフリをする点にある。
本屋でファンブックというものを見かけたことはないだろうか。ここ数年で異様なほど増加したファンブック、その中身はよくできていて、キャラの年齢や身長体重に始まり、詳細なものになると座右の銘から好きな異性のタイプまで列挙されている。それも主人公達だけでなく、敵側すら完全網羅されているのには驚きを隠せない。
昨今何故、ここまで詳細なキャラ設定が必要とされたのか……それは、受け止める側の妄想力の低下と同一世界観の完全構築要求にあると考える。
そして、ファンブックのみならず、フィギュア人気もそれを裏付けている。ファンブックが内面的な後付だったとすれば、フィギュアは外面的な後付なのである。
小説はもちろんだが、漫画やアニメであっても、キャラの全貌を三次元的に再現することは不可能である。あくまでワンカット、後は妄想で補ってくれ、という。妄想力の低い軽オタにとって、これほど悲惨な宿題はない。それを補う意味で、フィギュアは彼らの裾野にまで拡大したと言える。
二次元思考しか有しない軽オタがキャラを三次元化するためのツールとして、ファンブックとフィギュアは歓迎され、それらを補うことで妄想を荒走らせることなく、ファッションとしてのオタクを安易に繕うことに、彼らは成功したのである。
また、軽オタの増加とともに、プロレタリア層の増殖が話題に上るのは、至極当然のことでもあろう。三次元思考(もしくは妄想)を不得手とする彼らにとって、自身の行動後の事象を立体的に想像することは至極困難なことだといえる。
長年にわたる、ポジティブシンキングが過ぎたのだ。よって、彼らは「最悪」を想像できなくなってしまっている。曖昧な日本社会は、優しい彼らに何とかなると思わせてしまうのだ。なんとかなるなんて、ないということ。なんとかしなければ、もはやなんともならない、そこまで事態は切迫しているということ。それを忘れたまま、議論することに最早何の意味もない。
ポジティブシンキングからの脱退が必要となっているのだ。「最悪」は焦りと、その後の安堵を生じさせることも忘れないで欲しい。傍から見たらそれは保身にしか見えないのかもしれないが……それこそが必要なときもある。
ポジと、ネガ。ネガティブシンキングは、いずれ鏡のようにポジティブを映し、作り出すことになるのだ。
Ground5 キャラクター化する子供達
キャラの記号化が顕著になるにつれて、子供達がキャラクター化してきたことにも注目して欲しい。
キャラクター化する子供達が増える原因として、私はまず子供の名前を挙げたい。男の子であれば〜太郎、女の子であれば〜子といった、昭和の名前はすでに姿を消し、いわゆる派手な名前――まるで、漫画のキャラにつけられるような名前が好まれる傾向にある。それは、すでに親が子を「子」としては見ておらず、「キャラクター」とみなしているせいではないだろうか。親はまるで、ゲームプレーヤーがRPGの勇者につけるような感覚でもって――子供に物語の主人公たるにふさわしい名前を愛情もってつけるのだ。
生まれながらにキャラとして存在することを余儀なくされた子供が、簡単に人間臭い存在に変わるはずはなく、成長するにつれて彼らはよりそのキャラにふさわしい容姿、性格を求め続けることになるのである。そうして、彼らは名前をはじめとして自らにふさわしい立ち居地を、キャラクターを作り上げていく。
また、キャラクターになりきるゆえに本来の自分を見失う人間も増えだした。表の顔と裏の顔の自己矛盾。いわゆる本音と建前というものは古来より誰だって持っていようが、それを幼いころから確信的に行っていたことで、彼らは少なからず罪悪感を覚えていくことになるのである。
ただ、キャラクター化の傾向は少年に比べ、遥かに少女達に偏っている。
その根源が幼児達の好む変身モノにあると、私はみる。男児用の戦隊モノは変身したとき完全にその姿を隠しきっているが、女児達の好む変身モノや魔女っ子モノは変身前後に姿があまり変化していない。変わるのはせいぜい衣装くらいなもので、バレない方がおかしいとすら言える。
その最果てとして、漫画『しゅごキャラ!』をあげる。この作品における変身は特別な存在に変わることではなく、自分の中のキャラを使い分けるというところまで来ているのだ。
また、休日街に出て、制服を着た女子高生に違和感を覚えたことはないだろうか。試合や学校行事があったというわけでもなく制服を着て遊ぶ女子高生達。世紀末に女子高生がブームとなり、ブランド化し、その流行が終わった後、制服に残された役割はキャラクターになりきるためのアイテムとしてだけだった。
キャラクター化したがる少女達の、至極簡単な選択。『らき☆すた』の『もってけ! セーラーふく』にあるように、制服はラクチンだという。だが、ここで注目して欲しいことは、少女達にとって制服とは衣服を考えなくていい楽チンではなく、キャラクターを演じる必要がないという心理的楽チンなのだ。なぜなら、制服は自分が演じることなくキャラクターを演出してくれる。名門私立女子高ならお嬢様、県内一、二を争う進学校というならインテリエリートといった具合に、無意識のうちに私達はその制服を着ている人間をカテゴリーしてしまうのである。
女はみんな女優、なんて言葉をよく聞くが、なるほどそうかもしれない。少女達は様々なキャラクターを演じるという変身を日常的にこなし、あらゆる軋轢から逃れてようとしているのである。
Ground4 『戯言』の効用――西尾維新論
漠然とした不安に形を与えることほど、恐ろしいことはない。ことに思春期――その年代は目に見えないものを形にすることに対し、狂信的になる傾向にあるが、そういう意味で西尾維新はまさに脅威であった。
西尾維新を代表する『戯言シリーズ』のラスボス的存在に当たる西東天、彼を形成する二大理論――ジェイルオルタナティヴとバックノズル。この一見しただけでは全く意味の取れない二つの言葉、これが現代を読み解く肝となる。
とりあえず、『ザレゴトディクショナル』からこの二つを引用してみよう。
ジェイルオルタナティヴ――代替可能。
バックノズル――時間収斂。
二つまとめて簡潔に要約すると、結局のところ世界の結末は決まっているから、君は何しても無駄なんだよ、というところに落ち着くと私は思っている。
無価値な自分自身への不安、自分が死んでもおそらく世界は変わらず続いていくであろう虚無……それら、伝えるにはあまりにも曖昧で漠然とした感情に、西尾は名前を与えてしまった。
もう一度言っておく。これは、恐ろしく危険なことだったのである。
この言葉を、意味を聞いて、人は皆、すとんと心に何かが落ちるのを感じるだろう。無条件で納得してしまうのだ。
だが、納得はやがて自分を動けなくする。無意味だとわかっていながら戦えるほど、人は強くない。それゆえ、彼らは思考と行動を拒否することになってしまった。
だが一方で、その二大理論を無効化する言葉も『戯言シリーズ』には存在する。
「……戯言だけどね」
これである。
主人公である戯言遣い、いーちゃんが用いる、言ってしまえば決め台詞。「戯言だ」「戯言だよなあ」等、様々に活用されるが、基本はひとつ。
戯言――ふざけて言う言葉。冗談。
意味そのままに、戯言に本音はない。最後にこの一言を付け加えるだけで、どこまでが本気の言動だったかは曖昧になり、全てを煙に巻くことが可能となる。ここにいるのは本当の私じゃない。今、ここで話しているのは本来の私じゃない。誰もがそう思った、思いたかった経験があるはずだ。その願いを、たった一つの台詞が可能にしてしまったのである。
世界がどう進もうと、社会がどう動こうと、戯言を発している間は自分には何も関係ない……社会の歯車から逸脱することで、彼らは定められた運命からの自由を手に入れることができるようになったのだ。
ネタバレ覚悟で結末を言ってしまえば、『戯言シリーズ』はハッピーエンドで終わる。正義かどうかは判断しかねるが、何はともあれ最後は主人公が敵に勝つわけだ。
そう、すなわちこれは自らの吐いた根拠なき戯言(たわごと)が、自分を必要としない世界の流れに勝ったということになる。不安が形になったばかりでなく、その事実すらなかったことにしてしまおうという試み――!
だが、それこそが社会にとってアンハッピーエンドだとしたら? その後にこそバッドコンティニューが控えているとしたら?
それはそれで面白い結末だと、私は思ってしまうのだ。
Ground3 哀しきホメオスタシス
ホメオスタシス――生体恒常性と訳されるそれは、生体が外部や内部の変化に関わらず、常に安定した状態を維持し続けることを言う。
この章では、生物学のフィルターを通して社会を考察する。今回取り上げたホメオスタシスは、生体の維持としてだけでなく、個人レベルでの交友関係、ことに関係性に当てはまると私は考えている。
社会や地域と係わりを持たない若者が増えているという。いわゆる地域離れ、というものに文句を言う者が少なくないが、ホメオスタシスを保つという意味から考えれば、それが当然の結末であったことに、何故誰も気づこうとしないのか。
昨今、外部である人を取り巻く社会は日々拡大し続けいる。家族、恋人だけでなく、ネットで繋がった会ったこともない友人。
関係性は目には見えない。だが、一人の人間にはやはり許容限界があり、一定量の関係性しか保持することはできない。一見、コンピュータなどを用いることで許容量の増加を図ったようにみえたが、それこそが失敗だったのである。結果として、それらは私達に緩やかな関係を恒久的に保持し続けるという結末を残してしまった。都合の良いそのとき、リアルタイムにダイレクトに、相手に要件を告げられる。そんな便利な関係を人が簡単に削除することができるはずもなく、時を経て、交友関係が広まるごとに、関係性は少しずつ蓄積していく。微量の関係性を多数抱えた私達が、大きな関係性から目を背けるのは、いわば妥当な選択だったである。
だが、緩やかな関係は淡い期待と共に行動を阻害する。いつか連絡が来るかもしれない、離れがたい、消しがたいといっているうちに、気づけば引き出しはいっぱいになってしまう。以前に比べて疲れやすくなったなら、それは緩やかな関係性が原因かもしれない。残酷なようだが、必要のないものはゴミ箱に捨てる覚悟も……時には必要なのである。
整理術の本は書店に行けば多数ある。アイデア、書類、インテリア……物を整理する術はたくさん紹介されているのに、関係を整理する術はそれらに比べて遥かに少ないのはどうしてだろうか。
関係を捨てる、とは残酷なことである。そしてもちろん、不用意に関係を捨ててしまえば、動きはさらに鈍化してしまう。やはり人は、思っている以上に優しい生き物なのかもしれない。
Ground2 てろりすと症候群
「殺したことはありますか?」と問われれば、私は迷わずYES(はい)と答える。
創作、妄想、ゲームのコントローラー。シチュエーションは様々で、方法だって幾万通り。何人殺したかなんてすでに忘れてしまったが、仮想殺人に立ち会った経験のない人間なんて、今のご時世皆無であろう。
つまり、だ。死のリアリズムが失われ始めているのである。
私を含めた最近の若者が、決して死を知らないわけではない。ただそれが「特別」な死であるだけ。特別な死――肉親や愛玩動物など――は、やはり特別なことであって、彼らに日常的な死のリアリズムを生じさせてくれることは少ない。死骸を見慣れていない者達にとって、死はそこで全てが終わるリセットボタンなのである。死後、冷たくなり、融解し、腐り果てていくことを、頭の中では理解していても実感することはできない。
そんな背景を思索してか、殺人や自殺など、死にまつわる事件が起きるたび、ここぞとばかりにゲームの悪影響が持ち上がる。確かにゲームは敵を倒すという主旨の作品が多いことからも、仮想敵に仕立て上げたい気持ちはわからなくもない。勧善懲悪の展開は、結論づけるにあたって大変便利でもあるからだ。
だが、私はゲームが今時分の子供にそこまでの悪影響を及ぼしてはいないように思う。なぜなら、人が狂信的に影響されるのは、十歳前後――小学生から中学生にかけての、地域に密着した生活空間を有する間――に革新的に発展した娯楽だけだと考えているからである。それが、私達八十年代生まれにとってはゲームであったというだけだ。ファミコンから始まった快進撃、日進月歩する技術は私達を飽きさせることはなく、かつて経験したことのない享楽が垂れ流され続けたのである。こんなことをされて、影響されないはずがないのだ。
私達にとってその対象はゲームであったが、団塊の世代から数十年はそれがテレビであったろうし、九十年代以降生まれにとってそれは、ネットや携帯というメディアだったといえよう。
いまだにテレビの放映内容からの悪影響が取沙汰されているが、私達がテレビをテレビの中の出来事と割り切ってしまえるように、今の子供達もまた、ゲームはゲームと割り切っているように感じられる。よって、作り手が影響を考えるとき、常に子供達への悪影響を考えるだけでなく、かつての狂信者への影響までも考える必要があることを忘れてはならない。
それにしても、「テロリスト」をひらがなで表すだけで、なんてかわいらしいのだろう! そう思いはしまいか。
もう何十回と、いわゆる良い子が凶悪犯に変貌したニュースに邂逅しているが、彼らの犯罪前の姿こそが「てろりすと」だったような気がしてならない。「テロリスト」でなく、「てろりすと」。かわいらしい文字列に決して騙されることなかれ。変換キーを一発押せば、それは瞬時に恐怖(テロル)へと変貌するのである。
てろりすと達はかつての影響を心身に残しながら、現実社会でそれなりにうまくやっている。ときに大反乱を夢想しながら、彼らはそれを行動には移さない。それはなぜか。答えは至極簡単――移す必要がないからだ。何かが崩壊したとき、その必然性が生まれたとき、彼らはテロリストへと変換されるのではないだろうか。
なんだかかわいらしい彼ら「てろりすと」が、本物のテロリストとなってしまわないことを、私は切に願うばかりなのだ。
Ground1 超個人主義の行方
「みんな」とは誰だ?
みんなツライんだ。みんな疲れている。
――ふと、思う。
みんなはどこにいる? みんながそうと言うのなら、私もなのか?
数十年前なら、「みんな」という存在を誰も疑いはしなかった。みんなは、ファッションやマスメディアという姿形を借りて、確かに目の前に存在していたのである。
しかし、アイデンティティの確立という言葉が流行しだして以来、人は群衆の中に生きるのでなく、個人の人間として生きることを強要されることとなった。アイデンティティの確立が大切――そう叫ばれ続けて、現実はどう変わったか。
「みんな」が姿を消した。
テレビの視聴率が軒並み低下し、ビックヒットが生まれない。理由は簡単で、現実からみんなが姿を消したからに他ならない。
みんなが消えた原因に、間違いなくネットは浮上してくるだろうが、ネットの面白い点、それはネットを見ているみんなが、決して同じ画面を見ていないというところにある。テレビは同じ時間、同じ画面を共有する。しかし、ネットによる共有感はテレビに比べて格段に低い。
ネットは誰もが見ているけど、誰も見ていない。みんななんか知らない、という超個人主義のもと成立している。
超個人主義が「みんな」を排除したというのなら、スイーツ(笑)は最後の「みんな」の擁護者的存在なのかもしれない。ちなみにスイーツ(笑)とは、デザートをあえてスイーツと呼ぶなど、女性誌や流行に踊らされがちな女性を侮蔑的に呼ぶ、2ちゃんねる用語である。
スイーツ(笑)の女の子達はいまだもって「みんな」と「ランキング」が大好きだし、ヒエラルキーを一等大切にしている。彼女達がいるからこそ、ブームがマイブームで終わらずに何とか成立しているのだ。そんなスイーツ(笑)の最大の共通点は、彼女達は自分の幸福限界を知っていることである。自分自身の許容量を見限っている。その中で、どう出るか、どう動くか。彼女達は不幸上手で幸せ上手なのだ。
スイーツ(笑)の大多数が女性である理由は、周囲の反応に敏感だからである。だが一方で、その敏感さゆえ、構成予備軍とされる少女達はすでに超個人主義に適応しているのである。
おそらく、それら少女達はスイーツ(笑)にはなれないし、ならない。「みんな」の存在を容認できず、スイーツ(笑)にもなりきれない少女……彼女達は一体どこへ行き着くのだろう。そして、最後の擁護者すら失いつつある「みんな」はどこへと向かうのだろう。
GroundZERO 人間走性
「全か無かの法則」が好きだ。
名前の通り、オールオアナッシング。ある刺激で反応するか、しないか。これほどわかりやすい法則はない。
筋肉や神経の興奮に当てはまるこの法則は、大衆の動きとよく似ている。刺激に反応すればそれはブームという形で興奮を呼び、反応しなければそれはスルーという形で終わってしまう。そして筋肉と社会が最も類似している点、それは同じ強さの刺激を繰り返せば、興奮は徐々に収まってしまうところにある。
社会はすでに動物化を終え、さらに単純となった筋肉化――が始まろうとしているのではないだろうか。ここに人の意思はない。欲求も欲望もそこには存在せず、あるのは刺激に対する反応、ただそれだけだ。
そんな社会、単純化し、フリーズ現象の拡大を示しながらも、それでも社会は進んでいる。動かない者がいれば、動く者もいるから――これこそホメオスタシスで説明することもできようが、私はここにもう一つの力が働いているような気がしてならない。
走性、である。走性――刺激に対して一定の方向に移動することしかできない、本能より低俗な適刺激にのみ反応する哀れな性質!
人は生き物である。人が集まる社会もまた、流動的な生き物に他ならない。そして私は考える。おそらく人も社会も走性を有している、と。
例えば、蛾は光に正の走性を示すが、それはなぜか。自らの意思など存在せず、どんな光であれ蛾はただまっすぐに光へ向かう。それは、光が蛾にとって必要不可欠な存在だからではないだろうか。
人が逃れることのできない正の走性――それは「幸せ」だと私は考える。蛾が必ず光の元へと飛んでいくように、社会もまた、幸福へとゆっくり進んでいく。
そうでなければ今までの発展はなかっただろうし、これからの成長も望めはしない。どうせ抗えないのなら、ただ走性に従い幸福を追求すればいい。最終的に幸せが待っていると自覚すること。現状ではわからなくても、自ずと引き寄せられてしまっているのを認識すること。おそらくこれが大切なのだ。
フリーズは一瞬で解けるものではない。解けたとしても、時には何かが失われていることだってあるだろう。それでもたぶん大丈夫、なのだ。動き出せば、次に進める。
人はたぶん、戦わずに生きてはいけない。何もせずに時間を過ごすことの、あの虚無を誰しも経験したことがあるだろう。血を流すとか競争だとか、そんな目に見えるものでなく、自分。自分と戦うなんて陳腐な言葉こそが、嫌味なくらいに、たぶんおそらく正解なのだ。これは私自身、認めたくないことではあるけれど。
とりあえず私は今日も今日で、戦い続ける。勝手気ままな兵法を駆使して。
書評「びっくり箱の生むものは」
「絶対善としての愛が滅びようとしている」
『暗黒兵法』の本編はこんな挑発的な言葉から始められる。
著者である雑賀自身、本書を「超攻撃型聖書(バイブル)」と称するように、全編を通して本書はかなり異端な構成をしている。目次だけを見れば、若者論かサブカルチャー論あたりで括りたくなるところだが――目次を見てしまえば、本書がすでに大きく歪んでいることに気づくはずである。
本書が一般の書籍と大きく異なる点、それは本来書物の担うべき知識の増幅と世界観の拡張の一切を否定した点にあるだろう。
延々に続くかと思われる螺旋階段を下りていく感覚、といえば想像してもらえるだろうか。底の見えない階段をただ手すりにしがみついて下りていく……行く先の見えない、内臓の浮くような感じ、それが本書を開いた僕の第一印象だった。
目次はおろか、ページ番号までもがカウントダウン方式。辺縁に始まり、最終的にゼロ地点――自らへと落ち込んでいく、入れ子細工のような構成は否が応でも興味を引く。ことに、たくさんの本を読んでいると自負する人間なら尚更、自分の経験との矛盾に眩暈を覚えることになるだろう。
これがうまい効果を挙げている点として、このレーベルの装丁も上げることができよう。講談社BOXのレーベルは全て銀の箱から本を取り出す、という仕組みになっているのだが、簡単には開けないという点からも本書が罠だったということに僕は早く気づくべきだったのかもしれない。ただ本を開く、ではなく本を取り出しやっと開いたところで、始めは始めでなく最後のページだったとしたら……?
書評を書きながら、こう言ってしまうのは白旗宣言にも似た感じで非常に癪なのだが、これを実感してもらうにはやはり、本書を開いてもらうしか他に手はない。
外見の話はそれくらいにして、内容に触れることにしよう。言うのを忘れていたが、『暗黒兵法』は評論本である。
全体を通して章は八つに細分化されている。扱う内容が多岐にわたるその中で、論として僕の度肝を抜いたのはなんといっても第一章――Ground7だった。実際、第一章と言っていいのかよくわからないのだが(先ほども述べたが、なにせ章は漸減する)、これが事実とすれば旧来の価値は完全に崩壊する。そう言い切ってもいい。
その証拠が、第一文である。雑賀は言う。従来の恋愛は滅びる、そして恋人の代替として人は共犯者を探すことになる、と。モテ系となるために右往左往している人種を、彼女は旧来の価値を引きずる者達としてばっさりと切り捨て、これからの恋愛は癒しや救いの対象ではなく、秘密の共有へと転ずるとすら言い放つのだ。
そんな兆候がどこにあった? いまだ、女性誌の表紙にはモテ系という文字が躍り狂い、最近じゃむしろ、物語としての純愛が持ち上げられているじゃないか! そんな僕の反論を当たり前のように雑賀は許してくれない。
恋愛ヒエラルキーにおいて、最下位に位置すると世間からレッテルを貼られている、オタクの目を見張る侵出こそが、それを裏付けているというのである。モテないオタクの戯言というなかれ。思い返してみればいい。トレンディードラマ(その言い方がすでに古い気もするが)における恋愛も、友人のできちゃった婚も、全て秘密の共有から波及しているであろうことを。
これだけでもう、十分すぎるくらい伝わってくるのではないだろうか。始めからすでに、微塵の救いすら用意されていないこと。準備運動もせず海に飛び込むような、ジェットコースター的展開でもって、本書の内容はさらに辛辣さを増していく。
手を替え品を替え、一貫した姿勢で雑賀はフリーズ現象――非戦闘人間の増加による社会停滞――に焦点を当て論じきっている。人それぞれ、固有にもっているであろうフリーズ化した理由を、彼女はことごとく塗りつぶし、攻め立てていく。モテないと嘆こうものなら、従来の恋愛が滅び行く理由を提示し、最近なんだか疲れたと言おうものなら、関係性には許容量があるからどれかを捨てろ、そう諭す。答え、というにはあまりにも残酷。信じきるには、あまりにも突飛。だが、一歩斜に構えて社会全体を見渡すという、新たなる視点を得るにはもってこいであろう。
全体を通して少々強引ではあるものの、奇抜な発想と論理展開に納得させられるのは、雑賀の引用のうまさにあると考える。サブカルチャーを好んで論じる雑賀にとって、日常から切っても切り離せないツールであるコンテンツ産業――ライトノベルや少女漫画など――はもちろん、それらに加えて、彼女は生物学というフィルターを持ち込んできているのである。ホメオスタシス、走性、社会有機体説など、通常耳にしたことのない言葉が、知的好奇心を満たしてくれることは間違いない。
僕が最初に挙げた恋愛に関する諸問題、他にも子供たちのキャラクター化や超個人主義による「みんな」の消失、そして西尾維新の大罪(これ以外言葉が浮かばない!)。分析分野は多岐にわたる一方で、常に結論は個人の中央心理という一点を見据えている。ややサブカルチャーよりではあるが、誰でも何かしら琴線に触れるものがあるだろう。
また、本書の恐ろしいところは、外見や中身だけではない。ライトノベルを扱うレーベルから出版されてしまった、という既成事実。ライトノベルは子供だけが読むものではないと言われて久しいが、やはり主な読書層は十代二十代、いわゆる若者層なのは間違いない。僕が一瞥したところでは、今のところライトノベル系レーベルから評論本が出たという経緯は聞いていない。ライトノベルを分析内容の中心として扱っている書籍ですら、新書など、他の媒体を利用しているのである。
それが暗黙の了解ではなかったのか! 例えそうだったとしても、今回ばかりはいい形で完璧にそれを裏切って、ライトノベルど真ん中。本書はまんま伏兵である。おそらくこの本を、評論や批評をかつて一度も読んだことのない世代が目にすることになるだろう。
少しばかり、本文から引用することにしよう。
「漠然とした不安に形を与えることほど、恐ろしいことはない。ことに思春期――その年代は目に見えないものを形にすることに対し、狂信的になる傾向にあるが、そういう意味で西尾維新はまさに脅威であった。」
本編では西尾維新の『戯言シリーズ』をその対象として論じているのだが、僕からしてみれば、本書こそが実践しているようにしか見えないのである。
評論――と聞くと、すぐに小難しい内容を想像しがちだが、本書はそんなに重いものではない。むしろ、軽い。だからこそ、十分に痛い。わかってしまうのだ。難しい言葉が何も使われていないのだ。それは現代思想を読み慣れている、いわゆるこなれた読者達には少々物足りなさを感じさせるのかもしれないが……だからこそ、僕は危惧せざるをえない。これが、本来届くはずのなかった者たちの元へと届いてしまうことを。
長らく「思想」や「評論」が、日常から隔てられた世界の出来事として敬遠され続けてきた理由として、アカデミズム色の強い専門用語の多用が上げられると思う。それは、使用者からしてみれば箔をつけるのにもってこいだったろうし、囲われた読者にとっては、自分に酔いしれるためのバズワードでもあったのだろう。だが、それこそが大衆にとっての見えない壁となり、「思想」を目の前にありながら存在しないものとする流れを作り出していたのではあるまいか。
しかし、今回ばかりは勝手が違う。本書は評論本であるはずなのに――その一切から解放されているのである!
自分の考えたことを、自分の有するツールを用いて、自分の知っている言葉で、理論立てて書く、ということ。
これを聞いて、何かを思い出しはしないだろうか? ――「ケータイ小説」である。
「ケータイ小説」の書き手は決して背伸びをしていない。等身大の自分を晒し、受け入れられているという流れ。そして、ケータイの枠を飛び出し、書籍化された「ケータイ小説」は、ケータイから遠くにあった人たちにもその存在を知らしめ、無数の「ケータイ小説作家」誕生のきっかけを作りだした。
ブログにおける日本語の消費量は、全世界を比較しても、他に類を見ないほど多いのだという。世界共通語と言われる英語をも越えている、とすら言われている。「書く」ことを愛する日本人は、必ず「書く」ために「考える」過程を経ている。つまり、「考える」ことが大好きなはずなのだ。そして、自分の考えたことを書くことも、他人の考えたことを、自らと照らし合わせながら読むことも――ブログの現状を見れば一目瞭然だろうが――愛してやまないのである。
そんな彼らにとって、思想が遠い存在であるはずはない。本書は「ケータイ小説」書籍と同じような効果でもって、いまだ目覚めることのない、数多の「ケータイ思想家」たちへと門徒を開くきっかけとなるのではないだろうか。
思想ブームが始まろうとしているのである。思想雑誌の相次ぐ創刊はそれを裏付けているともいえるだろう。そして、「ケータイ思想家」の等身大かつリアルな思想哲学! 本書を手に取った、雑賀以上に若く、無鉄砲な者達が新たなる世界観を目の当たりにしたとき、どんな化学反応を見せることになるのか……想像するだけで、思わずほくそ笑んでしまう自分がいるくらいだ。
だが、若者論を振りかざしながらも、雑賀自身が二十代である。彼女もまた、若いのだ。冷静に世界を分析しているように思いながら、実際一番熱くなっているのは当の本人であることは、よく起こる現象である。向こう見ずで自信過剰なのは若者の特権であろう。僕はそれが悪いことだとは思わない。
雑賀より若い世代であれば、一種の共鳴とともに自らの思考が具現化したような錯覚を覚えることになるのかもしれないし、また彼女より上の世代であれば、かつての情熱を思い返しながら――同時に、ある種覚めた俯瞰の目で――社会を見つめ直すきっかけを与えてくれることになるのかもしれない。
正直な話をしてしまえば、僕自身、サブカルチャー論や社会時評などに、少々うんざりしていたところだったのだ。巷に溢れかえるブログ論壇は、プロをも唸らせる秀逸なものから、読むに値しないレベルのものまで様々だが――とにかくむやみやたらと多い。しかも、ある事象に対し、脊髄反射的にレスポンスが返ってくる今、どうして一冊の本にする意味があるのだろうか、とすら思っていたのである。
だが、悔しながら本書は本でなければならなかった。本として、ある一貫したテーマを中枢に孕み、一定のボリュームを携えていなければ、成立し切れなかったことを本書はやってみせたのである。これは、批評界において論じられ続けていたネットと本との棲み分けに、ひとつの結論を出したともいえるのではないだろうか。
実態のある本として『暗黒兵法』の最終ページを閉じたとき、スクリーンの画面からは得られない実感を手にすることになるだろう。前も後ろもわからない、びっくり箱のような本書を支配した、という感覚。加えて、雑賀が言いたかったのはたった一つだけだったという事実。
最初から最後まで一貫して、雑賀は現代社会の鈍化を嘆き、その理由を突き止めようと模索し、それゆえ戦うことを勧めている。超攻撃型、と自称する所以もそこにあるのだろう。だが、雑賀自身が戦える人間であるからこそ、そんなことを言えることを彼女はまだわかっていない。余裕のある人間だけが戦える、という残酷な現実。それでも、僕は信じてみたいのである。戦う資格のない人間など存在しないこと、そしてどんな立場の人間であれ、覚悟は常に必要とされていることを。
しかし、そう考えると本書はまだ、いうなれば理論編にしか過ぎない。原因の追究を終え、理路整然と並んだ準備された心を、アイドリング状態のまま停止させてしまっては意味がない。そのことは雑賀自らが本編で述べていることでもある。仮にも「兵法」を名乗る以上、実践編としての更なる発展的展開を期待したいところである。
『STUDIO VOICE』(INFASパブリケーションズ)