第三関門 自著要約・書評 評価・東浩紀氏コメント

※注※ 総合評価は、自著要約の評価と書評の評価の単純な合計ではありません。

藤田直哉

男性24歳
合否 :
評価 : 自著要約A/書評A/総合A
◎プロフィール
東浩紀氏コメント 問題意識は明確で文章力もある。自著要約も書評も完成度が高い。すでに他社で受賞歴があるだけのことはあり、即戦力を備えている。講談社BOXのカラーともそれほど離れているわけではない。ロスジェネ論壇への目配せなど含め、おそらくゼロアカで免許皆伝を与えてもっとも安定して受け入れられる挑戦者。しかしそれは裏返せば意外性がないということでもある。清涼院流水/笙野頼子/2ちゃんねるに新たなカーニバル文学の可能性を見ようという議論は、現在の文芸評論では先進的かもしれないが、ぼくにとってはいささか退屈だ。というか、それでは1万部は絶対に売れない。残り半年でさらなる飛躍がほしい。
非現実(バーチャル)の祝祭(カーニバル)
 悪というのは文学の重要なテーマであり、安吾には善と悪を分けて考えようとするところがなかった。文学とはもともとそうしたものであり、人殺しも含め、いわゆる悪いこととされていることは本当に悪いことなのかどうか。単に常識で善いこととされていることは、本当に善いことなのかどうか。悪いことというのは、実はたいへん善いことなのではないか。そこまで根源的に問いかけ、考えるのが文学なのだが、最近は悪を考えようとする作家がいなくなった――筒井康隆(「異端の排除は個性の排除」)

要約

 90年前後から、80年代なサイバーパンクとは違う形の、インターネットを題材にした小説が増えてきた。阿部和重『ニッポニアニッポン』や村上龍の『共生虫』東浩紀『キャラクターズ』などなど、他にも多くある作品群である。そのインターネットの出現と言う社会の変化を反映し、文学も変化し、そして人間も変化してきた。
 そのような背景を含みこんだ小説の分析をしている批評はそれほど多くなく、群像の『創作合評』を中心に、頓珍漢な読解が行われていることが多い。そのために、そのような小説がどのような表現をしていて、そして現代の、特にネットの問題に向かい合ったのか、その切り結び方を分析することで、その作品の理解を上げると同時に、現代という時代への探求ともなることと思う。
 特に、ネット世界に特有の「カーニバル」というものを扱った表現を分析することで、大衆の匿名での「熱狂」と言うものを作家たちがどう考え、作品に取り入れていったのかを分析する。そのような表現を敢えて使う意図や、表現の意味、そしてどのような倫理が現れているのかをここでは中心となって観察する。
 カーニバルや悪は、文学が夢見る「不可能性への夢」を表現しており、そこから「自由」の可能性が現れる。911以降、あるいは90年代以降、ネットが可視化した理解不能な他者のせいで縮小傾向にある「自由」の抵抗である「若者の反抗」として、カーニバルという「反現実」の「悪魔的な」「快楽原則の世界」の表現を擁護し、そこに文学の可能性を見出す。

第一章 総論

 社会学者の鈴木謙介は、『カーニバル化する社会』で、社会が「祭り」を駆動原理にし始めているのではないかと指摘する。「非合理な志向」を「徹底的に合理的に自己の生活の中に組み込もうとする」「合理化された魔術の世界」(p153)であると、カーニヴァル化した社会=現代日本に対して述べている。
 この「合理化された魔術の世界」とは、「脱魔術化」と資本主義に対して述べたウェーバーの議論を引き継いでいる。資本主義の倫理とは、世俗内禁欲をして脱魔術化した世界である。そしてネオリベラリズムの経済主義はますますその脱魔術化を推し進め、「非合理な志向」を排除しようとしているように思われる。
 そしてその「非合理な志向」を押しつぶしてきたのはプロテスタンティズムと資本主義とマルクス主義の規範、大きく言って「合理主義」であり、カーニバルはそれに対抗して生まれた民衆の無意識的な表現であると考えることができる。まずはそのようにして「カーニバル」を擁護する。
しかしながら、その「カーニバル」が現実世界に逸脱して犯罪を行っているのだという良識派からの批判がある。江藤淳的な流れを汲んだその批判に対して、その「正しさ」「倫理」の暴力に耐え切れない精神が必ずどこかに裂け目を見出すのだと論じ、それならば小説の中に表出され、そして読まれることで、安全に回収できるほうがいいのではないかと提案する。
それでは、カーニヴァルは現代日本の小説においてどのように現れているのか。まずそれは、スペキュレイティヴフィクションの影響を受けているし、新左翼的な思想やフーコーなどのポストモダン思想にも影響されている(もしくは共振している)。
インターネットにおいて露骨に表れ、ネット以外も侵食しているカーニヴァルとは、次のバフチンの言葉で定義できる。「それは儀式的性格を帯びた多種混合の見せ物のひとつの形式である」(『ドストエフスキーの詩学』p247)「カーニバルとはフットライトもなければ役者と観客の区別もない見せ物である。カーニバルでは全員が主役であり、全員がカーニバルという劇の登場人物である。カーニバルは鑑賞するものではないし、厳密に言って演じるものでさえなく、生きられるものである。カーニバルの法則が効力を持つ間、人々はそれに従って生きる、つまりカーニバル的生を生きるのである。カーニバル的生とは通常の軌道を逸脱した生であり、何らかの意味で《裏返しにされた生》《あべこべの世界》(monde a L’envers)である」(p248)「自由で無遠慮な人間同士の接触が力を得ることになる」(p249) 
そのような世界がネットと共振することでどのような作品を生み出し、それは社会をどのように反映し、あるいはどんなメッセージを持っていて、現代の諸問題や虚構と現実の問題に向かい合ったのかを探求するのがこの論文の目的である。

第二章 筒井康隆『朝のガスパール』

 まず、日本における「虚構世界でのやりたい放題」の作家の先駆者として、筒井康隆のネット小説・新聞連載小説・読者参加型小説である『朝のガスパール』(1992)を分析する。これこそまさに境界を侵犯し、読者が参加するカーニバルである。
小説内におけるネットゲームから「まぼろしの遊撃隊」と呼ばれる暴走する軍隊が飛び出してきて、(小説内での)現実世界で大量殺人を起こしてしまう。さらに、小説世界と、それを書いている作者が登場し、読者からの手紙やネットでの書き込みがリアルタイムに組み込まれていくことによって、小説内/読者のいる現実という境界をも食い破って本から出てこようとする。「虚構の側から現実への侵犯は可能か。ぼくはずっと、そればっかりを考えていた」(p316)という、虚構世界から現実へ、という意志が強く存在している作品であり、その「現実へ」という意志の部分においてメタフィクションという手法が利用されている。
虚構世界内においては超自我が弱くなっているがゆえに無意識が暴走することになる。それはフロイトやシュールレアリスムの文脈で分析するべき、シニフィアンの戯れとも言うべき、超自我無き無意識の祝祭世界である。この暴走する無意識に対して筒井が作中でどう決着をつけるかをここでは分析する。
この作品の結末では姉妹編である『パプリカ』(1993)の登場人物が登場して感想を述べる。「だけどその危険さは、前も今度もわれわれ現実世界に生きている者の無意識を触発したと言う点で同じだし(後略 p312)」。では同じくバーチャル世界から無意識が飛び出してきて大暴れする『パプリカ』での結末はどうなっていたのか。それは原作では夢同士の強い戦いと、意思により、無意識は、いつの間にか、ちょっと悲しく消えていく。だが映画版では巨大な怪獣が爆発して「世界の終わり」のようになってしまう。
この「無意識の世界」の「なんでもあり」の「自由」というのを追求しようとするイデオロギーは、フロイトの「抑圧」概念と連動している。初期の筒井は、そのような「なんでもあり」「抑圧に抵抗する」「常識以前の人間精神の混沌」の中で「人間の本質」(『悪と異端者』)を探っていたのだと思われる。
しかし、1992年、1993年単行本発売のこの二作においては、少し、その「なんでもあり」の過剰さからの揺り戻しが来ている様に思う。それは虚構世界の暴走が結局は収まり、その後に物悲しく「俺たち戦っていたんだよな」と確認しあう『パプリカ』のラストに顕著である。これにはこの間のポストモダン化の進展と、徹底、そして揺り戻し、という、90年代的な社会情勢の変化が原因であると思われる。しかし、安易に「社会」や「倫理」には行かず、まだ虚構世界でのカーニバルを全開に展開してはいるというのも注意が必要なところである。

第三章 清涼院流水『カーニバル』

 1997年に講談社ノベルスから出て後に2003年に改稿されて文庫版が出た清涼院流水の『カーニバル』シリーズは、現代に現れた奇怪なメガノベルであり、現代の状況全体を写し取ろうとしたマキシマリズム的作品である。
 インターネット世界との共振を示唆されながら書かれるこの小説は、1997年発表であるのに、2ちゃんねる的世界を予告したかのような作品である。「匿名」の「仮面舞踏会」でのカーニバルと、世界全体がありえない億単位の殺人になっていく熱狂的な姿が描かれていく。さらに、ニセモノとホンモノが混乱し、虚構と現実の区別がなくなっていくような、ポストモダン化の果てのような世界で、延々、巨大な謎が迷宮のように現れ続ける。そのような時代背景の反映的な部分も多い。
 さて、清涼院は自身の小説を「流水大説」と呼び、「ボケとツッコミ」「言葉遊び」「笑い」を重要な要素として指摘し、「常識や権威を疑うこと」をテーマとして掲げているが(『五輪の書』)、これと筒井康隆との類似を指摘することができる。周囲の現実を「虚構」ではないかと疑わせ、メタフィクション的な仕掛けを仕組むことで、周囲の世界が「物語」に構築されたものではないかと疑いを持たせる手法は、筒井康隆もよく展開したし、それ以前にディックなども使う手法である。(RリアルとDドリームという二種類の世界があると『カーニバル』で書かれている)
「ボケとツッコミ」には、バフチンのいうポリフォニー論が当てはまる。つまり、多種多様な思想が衝突し、作者の単一の思想に回収されない物語であるばかりか、登場人物すら他人の批判を先取りして言葉を発すると言う、相手を主体内部にあらかじめ組み込んで分裂した人格になってしまっている(さらに、人物はどんどん分身が現れ分裂していく)。そのために膨れあがり続けるこの小説全体と、「ボケとツッコミ」はフラクタルな関係になっている。さらに、ネットによって、他者からの批判が可視化され内面化された結果、人々の内面も変化したであろう状況と対応している。1997年発表ではあるが、非常にゼロ年代的である。
 この「言葉遊び」という要素であるが、この遊戯的な性格は、キャロルの『不思議の国のアリス』やジョイスやラブレーとの類似を指摘することができるだろう。つまり、それは西洋近代的な「規範」(≒常識・権威)に抗う、シニフィアンの戯れであり(無意識はシニフィアンで構造化されている)、言葉遊びにより「無意識」の世界を表現しようとした文学的な伝統に繋がるものである。まさしく、タイトルどおり、バフチンのカーニバル概念を援用して書かれたと思われる作品である。
 中盤から後半にかけて、濁暑院溜水が登場したり、『カーニバル』や、前作の『ジョーカー』『コズミック』などが登場したり、書いていることについてメタ的に語るメタフィクション的な振舞も、「カーニバルとはフットライトもなければ役者と観客の区別もない見せ物である。カーニバルでは全員が主役であり、全員がカーニバルという劇の登場人物である」というバフチンの論で理解できる。読者への挑戦状にも「あなたにも参加していただける」という記述があり、読者自身を虚構世界に巻き込む/あるいは虚構世界を現実世界に飛び出させることを意図しているものと思われる。
 過剰なカーニバルで快楽を獲得し続けてきた読者も、やがては現実へ戻る。しかし、解党編は肩透かしだし、終わりは物悲しく、尻つぼみである。謎を追っていたときの方が快楽が生産されていた。この、「物悲しい」「尻つぼみ」の虚構世界の終了=小説の終わりに清涼院はどのような意図を込めているだろうか。
 清涼院は、阪神・淡路大震災の影響を公言しているが、大量の死を描くことで「生きていることの素晴らしさがテーマである」と五巻巻末で語っている。この「大量の死」はダダイズムが生じる原因を想起させるし、作中にも出てくる笠井潔の探偵論とも通じると思うが、『カーニバル』という文脈の中ではそれは嘘であると思うのだ。どういうことか。つまり、「カーニバル」において日常と倫理が逆転した世界においては生贄を作ることにより、儀式を行い、生命と言う究極の蕩尽を行うことが喜びとなるからだ。その「生命」のインフレにより、より過剰な「蕩尽」へと向かおうという意志、現実に人を死なせることなく、小説内の蕩尽において、ホンモノの死に匹敵する巨大な蕩尽の感覚を出そうとする意志がそこにはあり、「よい子の模範解答」的な上のテーマとは違い、むしろ「死」への喜び、「悪」への喜びがあるものと思われる(バタイユ参照)。しかし、それを「小説内で」解消させようとすることで逆に現実の生命の蕩尽へ「向かわせないようにする」という捩れた構造になっているのだ。
 だから一見希望を持って見える結末も、本当はむしろ望まれていないのではないかと思わざるを得ない。その点、終わりの寂しさは筒井康隆とも通じるが、もっとやりきった感はこちらのほうがある。しかしながら巻末においてよい子になろうとするところが、「悪」を標榜する筒井康隆との大きな違いである。
 この巨大な猥雑性と怪物性は擁護するべきものである。911以後、あるいはネットによる異質な他者の「可視化」を経て、清潔・安全・セキュリティ化に向かい、理解できない〈他者〉を排除し、自由を制限する傾向のある現代において、この小説が存在することの価値は大きい。猥雑さと怪物性の中にある喜びに満ちた無遠慮な自由と、〈他者〉や外部への感受性。その可能性もまた、この小説からは見えてくる。

第四章 後期笙野頼子

笙野頼子にはネット社会を予見したとも読める1992年発表の『レストレス・ドリーム』という作品があったが、この作品は、ワープロの中=夢の中=RPGの、京都をモデルにしたと思しき「スプラッタ・シティ」で、女性差別や抑圧をしてくる社会丸ごととキーボードを叩くことで戦い、変革させるという欲望を持った作品だった。夢の無意識とネット世界が同一のものとして描かれており、そしてその無意識や夢にまで入り込んでくる現実の世界の女性差別の構造と戦うという作品であった。これは、夢と現実という二項区分は崩壊しており、現実が夢(無意識)に影響を及ぼして構造を作り、逆に、夢の中(≒小説の中)でキーボードを押して戦うことで現実を改変しようとする意図を持った作品であった。〈他者〉は既に自己の無意識の中にいて、自己の無意識は外部と接続されているという感覚がこの作品からは読み取れる。
その笙野が1999年の2ちゃんねる誕生直前に、論争的になり、かる文体をポリフォニックかつカーニバルに変えていき、さらに実在の〈他者〉とコミュニケーションを試みる流れに至ったことは興味深い。1999年に論争本『ドンキホーテの〈論争〉』を出版する。ここからは、虚構の中から現実への、非常に直接的で戦闘的な形での逸脱が起こっていることを見逃すべきではない。そして『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』などでは、ウェブ的な文章も駆使しながら、躁病・統合失調気味に崩れた文体が始まり、それ以降、この両者が入り混じり、フィクションと現実が融合し、現実の人物を名指しして固有名詞を用いた〈論争〉とフィクションの混じった、ポリフォニックかつカーニバルな、初期の『極楽』や『皇帝』の生真面目な文章にはなかった「笑い」の多い作品に変化している。
笙野頼子はネオリベラリズムと戦い、内なる私的な神を擁護し、極私的言語を戦闘的に保持するために論争を仕掛ける。「ネット言語を使って新しい日本語をやろう」(『現代思想』2007年3月号p40)と述べている笙野は、ニュース速報+板的な戦闘的な態度で早稲田文学二○○四年九月号に載った柄谷行人批判を行う。そのタイトルが「RE・文学死んだよね? ――ハァ? 喪前が死んでんだよ、アーメン ドン・キホーテの執行完了」である。そこではもう虚構世界に留まる意識は見えない。「ネット世界」が「無意識のなんでもあり」だと認識されていた筒井や清涼院の作品とは違い、それが現実の政治に直接を影響を及ぼす社会的なものであるという認識が現れている。これはネット自体の実態が見えてきたことと連動しているだろう。
それ以降、笙野の作品は宗教的な世界に巻き込まれて祝祭と化す(例えば『二百回忌』)。国家や経済に簒奪されない、私的な宗教性の擁護も強いテーマとなっている(例えば『一、二、三、死、今日を生きよう! 成田参拝』)。それはカーニバルと笑いと連動している、近代文学や近代社会の規範が、特に最近の日本文学が抑圧してきたものへの、無意識からの挑戦と見ていいだろう。笙野は「虚構世界」でカーニバルをして「やりたい放題」をするのではない。もはや、日常世界・現実世界をカーニバル化するべき侵食させ続けているのだ。
だが、笙野が否定する新自由主義の商品の消費のファンタスゴマリ効果と、宗教性は実は意外と近いものではないかと思われる。よって、カーニバル化を推し進めると、新自由主義も推し進められると言う矛盾の中に彼女はいるのではないだろうか。宗教性を擁護すると言うのはマルクス主義的な左翼とは明らかに違う。むしろ保守に分類されるかもしれない。その保守が新自由主義を否定する理屈は、土着性とマイナー性である。高度消費的な固有名詞のスピードから、土着が生じるという、記号から「自然」を求めるようなナショナリズム的な心性が見え隠れする。その矛盾の回路がぐるぐる回る加速こそが彼女の文体の破格な面白さであるが、「自然」の身体性を希求していると言う点で、彼女はある種の「現実」や「事実」を求めるネット右翼の心性とも近づいてしまうのではないか。笙野から天皇主義までの距離はほんの少しであると思われる。
権威化した反権威を告発すると言う、ネット世代の代弁者的な『だいにっほん』三部作での振舞は2ちゃんねらーの最も良質な反権威的で正義感に満ちてアイロニーと笑いに満ちたバランス感覚のよいものだが、一歩間違えると過剰な正義感で人を叩き、排外主義的ナショナリズムに近づく、悪しき2ちゃんねらーとも接近してしまいかねない。そのような危険な綱渡りを笙野は行っている。

第五章 舞城王太郎『阿修羅ガール』

 舞城王太郎の『阿修羅ガール』(2003)と、清涼院流水のJDCシリーズへのトリビュートである『九十九十九』(2003)は、〈天の声〉と呼ばれる、2ちゃんねるを髣髴とさせるネット掲示板が登場し、西暁町が登場するシリーズの一環であるという類似性以上に、非常にインターネットを意識した作品であると言う点において似ているのである。
 まず『九十九十九』から見て行こう。この作品がWEBを暗示しているのは、IN THE WILD WID WORLDという章が存在することが示唆していると思われる。つまり、「WWWの中で」ということである。JDCシリーズに登場した探偵、九十九十九が、描かれた物語を「文章」として受け取ると言うメタ構造によって複数化し、最終的にタイムパラドックスによって主体が分裂するという作品である。最終的にこの作品は、メタ構造からの脱出のために「愛」「家族」に着地するのである。つまり、「こういう訳判んない小説と、私が住んで暮らしている現実を、ちゃんとはっきり区分けして欲しいの!何がホントで何が嘘なのか判んないとか、そういうのをやめてほしいの!」(p214)とまさに恋人が叫ぶ、現実か現実でないか、本物か偽者か分からない世界(=鈴木淳史が2ちゃんねるに指摘する「ネタ」性=本当か嘘か分からない宙吊り)の中で、その疑い自体を停止させるために、愛する人との「生活」をとりあえずそこで営むのだと言う結末である。
 『九十九十九』においてはカーニバル性はそれほど多くはなく、性的描写の過剰さがかろうじてそうであったが、舞城のカーニバル性は『阿修羅ガール』の方でこそ全面化する。この作品には〈天の声〉という掲示板が存在し、その掲示板で悪ふざけをしている人々が、実際に作中での現実世界に飛び出てレイプや暴行などをする「アルマゲドン」と呼ばれるカーニバルが起こっている。そこでは倫理などがなく、今までは「虚構世界の中で」「やりたい放題」だったのが、もう既に現実世界で暴力を伴い被害者を出す形で出ているのである。「なんでもあり」という、抑圧を否定する思想が徹底した結果、この小説においてはその象徴的存在グルグル魔人が現れる。彼は何の抑圧も受けていなく、好き勝手に「殺人」を行う。
 この、酒鬼薔薇聖斗を思わせる犯罪者と、意識を失った主人公「アイコ」の精神が、ネット内での人間同士のように融解しあうのがこの小説の後半部分である。
 意識を失ったアイコは、カーニバルの延長のような、「無意識」の夢の世界に行くが、そこはテレビに出てくる芸能人や映画の固有名詞が行きかう世界で、さらに、その無意識は他人(もしくは複数化した自分)とも接続されている。しかしここには、遊戯性、言葉遊び性、あるいは笑いは強くは見られない。むしろ幽玄的な感じすら漂っている。筒井・清涼院ほどの祝祭性はなく、むしろその祝祭の負の側面を意識しているからこその過剰さの抑制が見られる。つまり、「なんでもあり」に対する倫理的なためらいがこの作品には見られるのだ。
 笙野頼子が、肯定すべき、擁護するべきものとしてカーニバルの〈宗教性〉を擁護していたとしたら、そのような2ちゃんねる的な良質の部分に対して、2ちゃんねる的な感性が現実に染み出してくることの負の側面をこの『阿修羅ガール』は見つめているものと思われる。だから『阿修羅ガール』は筒井・清流院作品のように、「読者」へと出てくるようなメタ構造を採用しないのだ。
「グルグル魔人」というネットの集合的な悪意の塊の象徴は殺される。だが、その「理解できないモンスター」である〈他者〉への接続の意志を見逃してはいけない。目覚めたアイコは、「グルグル魔人」が子供を殺して阿修羅像を作ろうとした「祈り」の部分について考え、理解しようとし、ある程度の共感を持つ。誰にでもその「怪物のような暗い森」があることを考える。
 夢の世界から帰還するのは、愛するべき人間からの「帰って来い」との声だ。ここで、『九十九十九』や『好き好き大好き超愛している』に続く、虚構・妄想の中から、〈他者〉を切実に求めた脱出をすべきだという着地点が示される。舞城は〈他者〉と〈妄想〉の葛藤で最終的に社会を選択する。非現実の祝祭に後ろ髪を引かれながらも、それを徐々に断念し、〈他者〉との家庭的な日常を選択していく過程を読み取れるだろう。  だが問題なのは、これ以降の〈他者〉とそれへの愛は、ロマン化されてしまい、〈他者〉も愛も虚構化された自己の妄想に過ぎないもののように「逆に」なってしまっていることではないか。「愛は祈りだ」という『好き好き大好き超愛している』と言う言葉が、「愛」も「祈り」も妄想に過ぎないものに落とし込まれているというのは問題ではないだろうか。切実にそれを求めれば求めるほどそれから遠ざかり届かなくなると言う困難を以後の舞城は生きていると思われ、それは『九十九十九』で既に予言されている(恋人の毎回の死)。「身体」や「母への回帰」を求めているように見えるこの作品も、それ故に、再び虚構の中に閉じ込められて、〈他者〉や〈外部〉への到達が不可能になってしまっているのだ。しかしながら『阿修羅ガール』はこの倫理性のゆえに、「読者」という〈他者〉へと届くメタ性が緩くなってしまっているのではないだろうか。その点で、ここでは、倫理的であろうとすることが逆に目的を遠ざけると言うことを示しておく。
清涼院流水の「非倫理的」で雑多な怪物のような作品こそ、むしろ〈他者〉へと届く可能性を強く持っているのではないか。非現実の中で非倫理性を徹底させることが現実世界での倫理になるような逆立した倫理の存在が清涼院にはあり、舞城の場合はこれはあからさまな後退ではないだろうか。
 〈他者〉へと開く、出会いを求める、回路を開くと言うことは、理解できない怪物的な〈他者〉を招く可能性もあるのだ。筒井康隆は狂気をユーモラスに描くが、舞城の描くそんな狂気は、酒鬼薔薇事件以後の「モンスター的」に表象された〈他者〉である。だからその怪物への恐れと愛する〈他者〉を求める気持ちとが相互葛藤していて、作品が〈他者〉へと届く回路を閉じかけてしまっているのだ。そしてそれは主題とも適合する。
 しかし、我々が可能性を見出すべきは、清涼院流水のカーニバルである。一見倫理的に正しくないように見えながらも、「倫理的に正しくない」がゆえに、「不可能の夢」をどうしようもなく見てしまう自由への憧憬。既存の倫理や社会や権威に徹底的に抗う「反現実」の快楽原則による不可能への志向。これこそが、911以降、ネットが可視化した理解できない他者におびえ、現実には増加していない凶悪犯罪におびえ、人と人とが疑心暗鬼になっている状態で、夢見られるべき「自由」と、そこからくる〈他者〉出会いの可能性だ。我々はそれを決して否定すべきではない。徹底的な「自由」の不可能性な夢を「文学の中で」、社会や常識に抗い、見続けること。そのような夢を表現し、社会に変革を迫ることこそ、文学の可能性ではないだろうか。

 主要参考文献

バフチン『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫
ジョルジュ・バタイユ『悪と文学』ちくま学芸文庫
フロイト『夢判断』新潮文庫
アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』岩波文庫
筒井康隆『悪と異端者』中央公論社
川又千秋『夢の言葉・言葉の夢』早川文庫
巽孝之『メタフィクションの謀略』
東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社現代新書
鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』講談社現代新書
江藤淳『漱石論集』新潮文庫


(架空)書評  『群像』掲載            中田和生
 私は「とある戦場を越えて」でこう書いた。「もちろんカーニバルとは、あらゆる豊穣の祭りがそうであるように、すべてが過剰であることによってすべてが無に帰してしまうような場のことである。そこでは秩序が停止し、階層は混乱し、世界は混沌に沈んで一度死に、新たに再生する力を得るはずである」
 この書物の著者である藤田が言おうとしているのは、そのような欲望をフィクションの中に落としこむことで、物質的な犠牲を世界から出さず、人々の精神を新たに再生して力を与える、という可能性であろう。
 文学が、言葉によって「不可能」という夢を見ることは事実であろう。かつて、あらゆる制度から外れるゼロ度のエクリチュールを目指す理想があったのと同じように。藤田が擁護するのは、そのような現実の倫理では不可能なものを小説と言う「反現実」で実現させようとする心性であろう。そのような作品の可能性を、筒井康隆、清涼院流水、笙野頼子、舞城王太郎の中に見出そうとしている。「小説と言う「虚構世界内」で倫理を逸脱する振舞をすることは人間の無意識や抑圧されたものの表現であり、そこも含めて人間であるから、全般的な人間理解のためには無視できないのである」と彼は述べ、社会的な常識や倫理から逸脱しようとする「無意識」の人間の本質を探究しようとしている。
 彼がそれを通して擁護しようとしているのは「2ちゃんねる」と呼ばれるネット掲示板でもあるのだろう。そのようなネットと現実と小説の相互影響を踏まえてこの論は語られる。しかし、2ちゃんねるに代表されるようなポストモダンの固有名詞の平等化の果てに、何かが見出せるのだろうか。このカーニバルは荒野にしかたどり着かないのではないか。そのような相対化の果ての架空の平等を意図した「2ちゃんねる」が、その理想とは裏腹にただのジャンクな荒野にしかなっていないところ見るからに、そこに我々の「生」の可能性はないものと思われる。そのカーニバルは、単に、消費社会的な心性を反映したものに過ぎないからだ。
 例えば『カーニバル』や『九十九十九』には実在の講談社の編集者である「太田克史」という固有名詞が登場し、登場人物となるが、そのような固有名詞を使うことは内輪への奉仕に過ぎないのではないか。80年代的な記号消費のスピードの中で虚無に向かうだけではないか。そのような、分かる人にだけ分かる固有名詞の喚起性に依存した表現を、私はサブカルチャー下位文化と定義した。「まんが・アニメ的リアリズム」を使っているからというよりは、前提を共有する読者向けの閉じた表現であるからそれは下位文化であるのだ。『カーニバル』においては、既に存在する探偵小説の伝統を利用し、その上に小説を積み重ねようとする意図が見える。そのような批評の身振りを採用した小説は、何が文学であるかの問いを見失い、下位文化に転落しているのではないだろうか。いやしかし、メタ性を利用し、「現代文学」たらんとするこの作品には、読者との交流を回復しようとする「現代性」が存在する。かろうじてこの部分において『カーニバル』は下位文化への転落を免れている。
 だが藤田が可能性を見出す『カーニバル』を私が首肯しにくいのは、その文体意識のなさである。文体とは生としての身体に根ざしている。まるで虚構世界の中での「キャラ」のように身体のない幽霊同士が戯れているかのような印象を受け、文体と言う身体性も薄いように思われる。現代において、そのような「身体のなさ」に向かうことで、「身体と言う自然」を失った我々の生を加速することに可能性はあるのだろうか。
 一方で私が評価するのは舞城王太郎である。『九十九十九』は身体を獲得しようとする、浮遊した消費社会的固有名詞の話として読めるのではないか。スピードの中で消費社会と記号と戯れながら、身体という基盤に向かおうとする彼の作品こそ、ポストモダンを越えた現代において最も評価されるべき作品であるからだ。清涼院の粗雑な文体の「身体のなさ」よりも、文章意識に満たされた擬似女性的に書かれた『阿修羅ガール』の文章意識と身体性の方が評価すべきものであると思われるのだ。舞城は常に「母」に回帰しようとしているのである。
 文体は、あるいは言葉は、分節するという行為であり、切断と言う暴力の機能を持っている。私は、その切断の暴力は、それは暴力であると言う倫理性を持つ限りにおいて使うことが可能であると述べた。そのような暴力よりは、「愛」に向かう言葉をこそ私は肯定する。その「愛」とは「母」の言葉だ。それは江藤淳が『成熟と喪失』で語った、日本社会から失われていった、母性―自然である。その点、この著者とは違い笙野頼子のポリフォニー化を評価することはできない。

 ポリフォニー化とは、分節と対立をその前提としている。そのような、暴力的かつ男性的な原理に「女性作家」までもが覆われていくことに可能性はあるのだろうか。かつて「フェミニズムを越えちゃって」で私は笙野の、個人の問題を男性の責任に摩り替える論理を否定したが、この著者は、そのような「個人の問題」を社会的なものとして闘争の道具にする風潮に棹を差そうとしているしか思えない。むしろ、「闘争」を遊戯的に、「生き生きとした内面」を生産するために戯れとして行うことをすら肯定しているように思われる。そのような「不真面目な」政治への意識を取り込むことで、政治はただやみくもに混乱するだけではないのだろうか。
 冷戦の終結と、911以降、世界はミクロな対立が噴出し、バトルロワイヤル状態になっており、その結果としてポリフォニーが要請されてきているとしよう。その現状をただ追認して肯定しているに過ぎないという点において、この著作は「状況」に依存している。それは真の現代性ではないだろう。「文学」とは、そのような状況に対し批判し、別の可能性を示すべきであろう。私は、この著作で扱われている作品に対し、それがポストモダンの廃墟のような戦場を何度も繰り返し廃墟にし続けているという印象しか受けなかった。我々はこの戦場を越えていく可能性こそ見出さねばならないと言うのは私が繰り返し述べていることである。
 状況がこうであるからこそ、対立を無化させるような「母」の「愛」が求められているのだ。舞城の、女性の腹を引き裂いて子宮に戻ろうとするエピソードはそのように解釈しなければいけない。
 かろうじて舞城にのみ身体性が宿っているが、それ以外は、所詮、架空世界で文字によって行われる闘争に過ぎず、記号の戯れのネットワークの中から一歩も出られていないのだ。そのような記号の戯れと言うポストモダニスト的な言説に対して苛烈な批判を行ったのが川上未映子の『乳と卵』である。小説と言う記号でできた世界において、彼女の特異な文体は、身体性を載せている。「胸と子宮」をまさに意味するこの身体そのもののような作品では、まさに記号を食い破る身体の突出がある。「性あり」の文体がここにはある。
 一方に、作者の登場やメタフィクションなどによって、近代文学を超えた、読者とのコミュニケーションを実現させようとした「現代文学」があるとすれば、もう一方に、一見近代文学的な書き方であるがそれとはまったく違う「現代文学」も存在するだろう。藤田はおそらく、消費社会やメディアや下位文化やネットに囲まれた我々のリアリティ自体が、それらのように変容しており、それを表現する新たな「リアリティ」の表現として前者のメタフィクションを捉えている。だがその肯定の言説こそ、その作品の背景にある消費社会的俗悪さやジャンクさを肯定し追認する「宣伝」に過ぎないのではないだろうか。それはつまりは「アメリカ化」を追認する身振りに他ならないのだ。この書物の背景に見えるのはそのようなイデオロギーだ。
 藤田は一方で、ブログなどで、新自由主義化にともなう非正規雇用の問題を糾弾している。新自由主義化とは、グーロバル化の名を借りたアメリカ化に他ならない。そのような、本来であれば「アメリカ化」を否定すべき藤田が、評論においては「俗悪なポップカルチャー化」する「文学」を肯定するというのは奇妙な捩れのように思われる。
 これはおそらく藤田が無自覚だからだというわけではない。むしろ、そういうねじれを要請する社会の構造が存在すると言うことなのだろう。「俗悪なポップカルチャー」には、否定すべき新自由主義(アメリカ)の象徴である部分と、世代間闘争の道具として「若者のもの」であるという側面を持っている。つまり、年長者がある規範を持って守っている「文学」を「既得権益」と批判し、若者文化を下位文化と貶めるヒエラルキーに挑戦するものとして、「漫画・アニメ的リアリズム」や「ネット」は要請されてきているものと思われるのだ。
 このねじれは本質的なものである。非正規雇用の生活を守るためには、左翼はナショナリストにならねばならず、保守は新自由主義を否定しなくてはならない、という、複雑なねじれが日本社会で進行していることと関わっている。つまり、アメリカによってもたらされた負の部分である新自由主義は否定し、正の部分であるアニメ・漫画・インターネットなどは肯定すると言う、綱渡り的戦略がここでは取られていることに注意するべきだろう。だが、ポストモダン的な表象の戯れや個人主義などが、新自由主義を準備したのだと言うことも忘れてはならない。藤田の論は、本来であれば、非正規雇用を擁護するためには、舞城を擁護しなくてはいけないのではないか。しかし彼はそうしない。彼はそれよりは「ガス抜き」に近いカーニバルを擁護するのである。ここでは政治と文学を分離させて考えるスタンスが見えるだろう。政治の季節的な文学の規範とは違うことを考えているのである。
 だがここでは捩れた意味で倫理が出てきている。倫理を文学に適用しないことが結局は社会をよくすることになるのではないかという「倫理」がある。筒井康隆が、悪を標榜するにも関わらず、非常に「倫理的」な作家であると言うことと同じ意味でここには否定している倫理が回帰している。これは藤田自身の言葉による分析があるが、「昔はよかったなぁ」という筒井作品の朗読に対してこのような感想を述べている。「この作品も筒井さんらしい作品で、昔はよかったとおっさんが語りながらも、よかったのは悪いことをして金を稼いで身売りしてきた女の子を買い捲っていたお前だけだろ、昔は悪いだろ、とツッコミを誘い、「昔はよかった」式のノスタルジィを馬鹿にするアイロニー作品。アイロニーというのは、相手の論理を徹底的に使って演じることでぶち壊すという戦略である。であるからして、筒井康隆の批評的意図は、そういう悪い成金のようなやつに向かい、逆説的に真摯な社会批判や「優しさ」が浮かび上がるのだ」このように、悪や不真面目を擁護することの逆説的な倫理性が賭けられているのである。その点で、この評論さえもが倫理的であると言ってもよいだろう。
 我々はいつだって、夏目漱石の「倫理的にしてはじめて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり」という言葉に戻るのだ。それなくして、「文学」という表現は成立し得ないだろう。