第三関門 自著要約・書評 評価・東浩紀氏コメント

※注※ 総合評価は、自著要約の評価と書評の評価の単純な合計ではありません。

峰尾俊彦

男性22歳
合否 :
評価 : 自著要約B+/書評B+/総合B
◎プロフィール
東浩紀氏コメント この挑戦者も主題に実力が追いついていない。最終的に1万人の読者を獲得するためには、構成力を鍛える必要があるし、事例もはるかに豊富にする必要がある(オタク的・ゼロ年代的作品だけを参照して満足するのはいただけない――ただし挑戦者自身がその欠点を書評できちんと指摘している)。しかし構想はいい線をついている。挑戦者自身がそれを意識していたかどうかはしらないが、彼の構想はじつは、「少女」をどのようなイメージで捉えるかが単純に趣味の問題にとどまらず、哲学的・政治的立場の表明とも直結してしまう、この国の言論空間の歪さへの批判的な介入になっている。もしきちんと育てていけば、けっこう話題になる本が作れるだろう。
<少女>批評論序説   峰尾俊彦

●序章

 本書は<少女>というものが何かを探究するために書かれている。<少女>といってもここでは多様な意味を持っている。それは現実の若い女性という意味でもあるし、二次元の美少女キャラという意味でもある。本書はちまたに流通している<少女>という存在を定義するというより、<少女>という切り口をつかうことによって私たちの生に関わる多様な論点を浮き彫りにし、そこから返す刀で<少女>というものの輪郭を素描する。以下<少女>という言葉はもちろん具体的な美少女キャラだったりすると同時に思弁的な概念でもある。

●第一章

まず<少女>について考える時、参考になるのはいわゆる「美少女ゲーム」である。一般的に「美少女ゲーム」は、いわゆる「美少女キャラ」を選択肢をうまく選ぶことでうまくフラグを立て「攻略」するゲームだが、その一つのパッケージは複数にシナリオが分岐していて、複数の結末が用意されている「マルチエンディング」形式となっている。
ここで注目すべきことは、「美少女ゲーム」ではシナリオが美少女キャラクターを1単位として分割されていることである。そこでは、シナリオが分岐しそのシナリオの結末までたどり着くことが、美少女を選択して恋愛をし結ばれるという過程と重なっている。つまり、美少女ゲームというのは、たどり着くべき<少女>を一種の消失点として設定し、そこに漸近していくことをシステム化したメディアといえる。
ここで佐藤心の議論を参照する(「オートマティズムが機能する2」)。佐藤によれば「美少女ゲーム」おいては、一本のシナリオは三つの層に分離することができる。一つ目はキャラクターの層。二つ目はコミュニケーションの層。三つ目はトラウマの層である。
ここではトラウマの層に注目する。始めの二つの層がもっぱら「美少女ゲーム」という形式に関わっているのと違い、トラウマの層は形式のみならず内容にも関わっている。トラウマの層とは基本的に「美少女ゲーム」における物語類型に由来する。「美少女ゲーム」では主人公(プレイヤーの視点の依り代になるという意味で「視点キャラ」とも呼ぶ)が分岐によって選択したキャラクター(キャラクターの層)とコミュニケーションし美少女キャラと交流を深めていく(コミュニケーションの層)が、しかし多くの場合、美少女キャラと結ばれようとした時、何らかの障害が発生し、美少女キャラと結ばれることは一旦挫折する。その障害こそが美少女キャラにおける「トラウマ」であり、そこに主人公=プレイヤーが直面する局面がトラウマの層である。
このトラウマの層では美少女キャラ、すなわち<少女>のトラウマが主人公=プレイヤーにとって理解不可能な謎として立ち現れ、その謎こそが主人公がたどり着くことこそが美少女ゲームのゲームプレイを駆動することとなる。ここでわかるのは、美少女ゲームのシナリオの流れを理解不可能な<他者>を理解するという図式に近似できるということだ。消失点である美少女キャラ、すなわち<少女>は理解不可能で、最終的には理解されるべき<他者>として捕らえられている。そしてその<他者>性はトラウマとして<少女>の内部に内在的にインストールされている。つまり<少女>=<他者>という図式が存在していること、それを確認しておく。
この図式は他のジャンルでも拡張できる、例えば大島弓子の『綿の国星』では人間とコミュニケーションできないチビ猫が少女の姿として描かれているが、このチビ猫の少女のかわいらしさ、私たちの文脈で言えば<少女>らしさは、まさにコミュニケーションできないこと(<他者>であること)によって駆動するといっていい。猫アレルギーの母親が恐る恐るチビ猫に近づいていく時に、チビ猫が母親の恐れを理解せず無邪気に近づいていくのを見るときこそ私たちはチビ猫をかわいらしく感じるのではないか。
そして哲学というジャンルでも同じようなことが考えられる。ニーチェは形而上学というジャンルを真理=女性というような図式を無自覚に前提としてある種のお約束の閉域にとどまっているのではないかと指摘した。その指摘はハイデガーやその後のデリダなどのフランス現代思想でさらに深化される。ニーチェ以降の反-形而上学の流れは、他者=女という図式のそこに流れるイデオロギーや暴力を抉り出す。その意味で西洋哲学史は一種の<少女>論として読み直せる可能性があるのではないかと問題提起をする。

●二章

一章の末尾でも指摘したが<少女>を<他者>として措定しそれに漸近していくというモデルにはいわゆる男性主体の隠れた欲望の動きと暴力性が潜在していると思われる。そして、それは<少女>という<他者>の<他者>性を蝕む物だと思われる。以下そのメカニズムを検討する。
Keyの美少女ゲーム『AIR』と東浩紀のAIR論を例にしよう。AIRは分かれている三部のうち、一部は旅芸人である主人公の国崎往人が偶然出会った少女観鈴とその母晴子と共同生活を営もうとするが観鈴の謎の病によって挫折を余儀なくされる。結局往人が超能力により、観鈴を延命させるが往人はその担保として消え去ってしまう。第二部では時代が一気に過去に飛び観鈴の病の原因が伝奇的に説明される。そして三部では一部の話を繰り返すわけであるがその代わり視点キャラの位置には会話することのできないカラスが座り病によって弱っていく観鈴と晴子のコミュニケーションが描かれていき最終的に観鈴は死ぬのを眺めることになる。さて以上のことを確認した上でそこからわかる<少女>の機能について考える。
東浩紀はAIR論「萌えの手前、不能性にとどまること――『AIR』について」で美少女ゲームを父になることをさけながら父になることを密輸入するジャンルとして定義している。東は、ササキバラゴウや更科修一郎の議論を引いて、1970年代以降の大きな物語の凋落によって日本の男性が主体性や男性性を持たなくなり家父長的であり暴力的である自己を否定する、すなわち不能であることを装うことになったとしている。ここで東によれば美少女ゲームという一つの物語であると同時にそれが複数の物語が俯瞰できるというマルチシナリオの解離したシステムは不能でありながら家父長的な欲望を密輸入することを可能にする。つまりそれは<少女>という<他者>が自分に都合のいい鏡像となってしまっているということであり、暴力的であると自己認識をせずに暴力的に振舞うことを可能にする。
これは例えば百合作品にもアナロジー可能である。百合作品は男性が消滅しているが、そのかわり作品内におけるルールが強固に設定されている。たとえば『マリア様がみてる』ではスールというシステムがあり、スールというシステムの上下関係を内面化して初めて読者は『マリア様がみてる』という作品を読む快楽を得ることができる。しかし、そこに暴力が存在しないわけではないのだ。
話をAIRに戻すと、東はここで少女-視点キャラ-プレイヤー(読者)という3項関係を導入することで、この密輸入の構造に亀裂を入れることを可能にする解釈を提供する。東は視点キャラと少女の関係のみ、あるいは少女とプレイヤーにおいて考えるのではなく、プレイヤーレベルの出来事と物語レベルの出来事をつなげることによって、先に挙げた家父長的な欲望を経由せず家父長的な欲望を密輸するというシステムを転覆できそこにかろうじて<他者>を見出すことができる。
以上のように東のAIR論を<少女>論の文脈で捕らえれば<少女>を考えるにはそこに出てくる少女と登場人物、あるいは少女と読者の関係を考えるだけではダメであり少女-視点キャラ-読者の3項がそれぞれパラメーターとなっている関数であるという視点が必要であるとした論文であるととらえることができるのではないか。このような視点を取ることにより私たちは<少女>をただ登場人物として登場する表象として理解するだけでなく、<少女>というものをシステムとしてとらえる視点を得ることができる。この視点は読者の欲望と暴力性にセンシティブになることを可能にする。

●三章

ササキバラゴウは『美少女の精神史』でオタク文化において「超時空要塞マクロス」以後男の子は次第に男性のキャラクターは戦わなくなり、そのかわり戦闘が美少女キャラに代行されていくという現象を指摘している。これは前述のように男性の生きるモデルが崩壊したためだが、ここで指摘できるのは男性にとって美少女キャラに自分の欲望を集中化させることこそがもっとも男性の主体にとってのぞまれているということだろう。「マクロス」では美少女による歌が人類を救うことになるがそれは、美少女の歌が最終兵器となるほうがしっくり来るということなのだ。そのとき<少女>はけっして男性には手の届かないような「超越」的で「聖性」をもつものとして存在していると考えられる。つまりオタク男性は少女が男にはできないような何かに通じるものをもっているという少女幻想にとりつかれていく。
またいわゆる「ラブコメ」というジャンルにおいては少女自身が「超越」性を持っているわけではないが、主人公と少女が結びつくということを無限に先送りするという「ラブコメ」の特徴は、手の届かない領域のまましておくという意味では「超越」志向であり、先送り自体を求めるという点では否定神学的である。
その意味でセカイ系とは<少女>が「超越」的であることではじめて存在しうるジャンルだと言える。セカイ系とは最近のオタク文化でよく観られる物語類型の一つであり、大状況(戦争など)と小状況(恋愛など)の短絡をその特徴とする。そしてその短絡を支えてる物こそが少女である。
例えば高橋しんの『最終兵器彼女』を考える。『最終兵器彼女』ではちせは主人公の恋人であり非常に素朴な人物であると同時に、戦争における非常に強力な兵器であり、体が機械と一体化している。ここでにおいてちせという少女はちせとの平凡な日常と、戦争という大状況を結びつけるためのメディアとなっている。「最終兵器彼女」のようなセカイ系作品では、少女は主人公と戦争との関係においては距離を縮め、日常の主人公との関係においてはちせという少女は兵器であるという意味で距離を広げる。この距離感の転倒は<少女>というものの一種の雛形をなしている。『最終兵器彼女』を読むものは戦争という大状況においては少女に戦闘を代行してもらいつつ、一方で日常においては兵器であるという事実がちせという少女に「超越」性をもたらし、それによって二人に埋まらないギャップができることによりマッチョイズム抜きに<少女>を愛でることができる。言うまでもなくこれは二章でとりあげた不能を装った暴力の密輸入である。
この『最終兵器彼女』のようなセカイ系作品のような不能を装った暴力の密輸をさらに洗練させた作品を描いているのが米澤穂信である。米澤はミステリー小説家だが、繰り返し探偵が少女に敗北する構図の物語を書いている。例えば『インシテミル』では超高額のバイトと称して集められた男女がクローズドサークルを模した館に閉じ込められてクローズドサークルモノのミステリをなぞるような殺人に巻き込まれるという話だが、その中で探偵役で主人公である結城はこの事件がクローズドサークルをもして起きているということを逆手にとって他の人々よりもメタ視点に立った推理を繰り出していく。にもかかわらず結城の推理は間違ってしまう。なぜなら実はミステリのクローズドサークルの論理に従ってるかに見えた事件だが当の犯人はバイト代がもっとも高額になるために行動していた。すなわちミステリのルールではないまた別のルールで動いていてそれを考慮しなかったため結城の推理は見誤っていたのだ。
ではこの『インシテミル』という小説は諸々のルール同士のバトルロイヤル的な話になるのかというと違う。なぜならこの小説では、ミステリの論理もバイト代を最大化するという論理も包括してしまう<少女>による安定化というべきシステムがあるからだ。
『インシテミル』では実は事件の舞台に集められた人物の中の1人の須和名という人物は物語の最後で明かされるが実は、この事件の黒幕の1人であり、その他の人物達は須和名に踊らされていただけであった。ここで注目されるべきなのはこの須和名という人物はいわゆる萌えキャラ風に描かれ、そして超越的な存在として始めから終わりまで描かれていることである。須和名の露骨な超越キャラとしての描写は真相を隠しておきたいという規則を持っているミステリというジャンルとしては異例でありここからも米澤の<少女>を重視する態度はうかがえる。そして『インシテミル』という小説は最後に超越キャラたる須和名にひれ伏し、どんでん返しされるという裏打ちがあるからこそ、ミステリという論理を相対化する地平があらわれる。米澤の小説はあらかじめ不能を装い「超越」的な少女にひれ伏しておくという<少女>と否定神学的システムの結びつきを示している。
しかし、興味深いことに同時代にこのような<少女>による否定神学システムに抵抗するような小説が存在している。それは谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』以下それに続く『涼宮ハルヒシリーズ』である。
『ハルヒ』はある意味米澤の小説に似ているところがある。『ハルヒ』はよく知られているように宇宙人と未来人と超能力者を追い求める涼宮ハルヒという破天荒な少女が、キョンという少年をまきこみながらSOS団を設立して騒動を巻き起こすという小説である。そのハルヒが集めてきたSOS団のメンバーというのがそれぞれ宇宙人、未来人、超能力者であり、ハルヒは実は人間を超越した神のような存在であり、いくらでも世界を望みどおりにすることができハルヒを退屈させると世界に危機が起こってしまう。そしてキョンを始めSOS団のメンバーはハルヒを安定させるために奔走することとなる。
まず『ハルヒ』では「超越」的な少女の存在が米澤の小説では物語を支えるための基盤として存在していたものが、『ハルヒ』ではむしろ物語レベルにおいて処理されるべき困難としてとらえられている。米澤の『インシテミル』おいては外部から天下り的に存在していた作品世界を支える<少女>が、ハルヒにおいてはむしろ<少女>が世界を支えるというプロセス自体が物語レベルで演じられ、米澤とは逆にハルヒという<少女>によって世界を支えるには登場人物たちがハルヒをうまく操縦しなくてはならない。その意味で『ハルヒ』は<少女>システムに対するメタフィクションになっているといえる。
さらに『ハルヒ』においては主人公であるキョンとハルヒのコミュニケーションが重視されている。『ハルヒ』シリーズにおいてキョンとハルヒはお互い思い合っているあることが示唆されているが、にもかかわらずキョンとハルヒは単純な恋愛関係とはならない。キョンは第四作目である『涼宮ハルヒの消失』において、破天荒なハルヒとともに超常現象が起こったりするSOS団の生活をずっと続けたいと決断している。そこで、キョンはむしろハルヒにひれ伏すわけではなく、SOS団全体にとってよりよい世界を作っていくためにハルヒという<少女>と鏡像的な二者関係にも陥らず、かといってハルヒからはなれることもせず(「超越性を断念せず。『消失』ではキョンは長門をフッている)うまく、ハルヒを相対的な<他者>としてうまくコミュニケートしハルヒという<少女>によって支えられた世界をうまく調整していくという道を選択している。

●第四章

さて前章までは<少女>を超越的なものとしてとらえていた。一方で『ハルヒ』のように超越的な<少女>とコミュニケーションすることによって世界をよい方向に動かしていくというモデルも観た。ここで「コミュニケーション」という概念を使って今まで挙げてきた<少女>とは全く別のイメージの少女像を作り出したのがいる。それが社会学者の宮台真司である。宮台はその著書『サブカルチャー神話解体』や『制服少女の選択』によって、徹底的に「超越」とは切れて、ただフラットなコミュニケーションの連鎖のみで生きるような<少女>像を肯定した。それがいわゆる援助交際少女と呼ばれるものである。宮台によれば彼女達はいくら体を売ろうが傷つかず、オウム真理教のような「超越」への吹き上がりはありえないという(『終わりなき日常を生きろ』)。また『サブカルチャー神話解体』では超越的な<少女>というイメージが社会全体の下部構造とその上にのるコミュニケーションに還元され、その超越性は解体される。
このような宮台の視点は今までの議論が<少女>本質主義というとしたら、<少女>構築主義というべきものである。宮台以前の議論では<少女>のイメージはある程度定まっていて、もしそのようなイメージとは違う少女が存在したとしてもそれは逸脱したものとして処理されるが宮台の視点では<少女>が逸脱するということ自体がありえない。というのも宮台にとって定まった物ではなく<少女>像はいくらでも更新しうる物であり、例えば中学生で売春をしている少女がいたとしても不透明である以上当然のことである。宮台の認識を踏まえれば聖性をもった少女みたいな、少女幻想のようなものは不可能になる。
このような宮台の視点と親和的なジャンルとして「エロマンガ」というジャンルが存在する。エロマンガというジャンルが特徴的なのは、ポルノメディアの中でもっとも表現が過激である、言い方を買えれば現実離れした性描写が可能となっていることである。エロマンガにおいて陵辱される<少女>とは読者の欲望をいくらでも投射でき、それに従って自由に<少女>の姿を自由にカスタマイズすることができる。
例えば、ほりほねさいぞう(掘骨砕三)は、基本的には人間と他の動物や昆虫(例えば鳥だったりクモだったりハエだったりナメクジだったり)が合成されたクリーチャーがセックスを繰り広げるという作品を作り続けている作家である。その堀骨の世界観においては人間/非人間、や男/女のような二項対立は存在せず、巨大なペニスを持った少女やら、三本のペニスと十二個の乳首を持った少年などがごく当たり前に出てきている。 ここで注目すべきことは、ほりほねの作品において出て、奇形的なセックスを繰り広げるクリーチャーたちが基本的にかわいいらしい少女(少年であることもあるがかわいいということには変わりない)をベースにしていることである。ほりほねの世界で<少女>は単一の超越的な存在ではなくむしろ、ふたなりやら複乳やら昆虫化やらの多様な奇形化を許容するような受容体として存在している。ほりほね作品の<少女>はどのような昆虫や動物にもメタモルフォーゼでき(流通し)、宮台の言葉を使えば「過剰流動的」な生をいきる。ほりほねの『夜に虚就く』という作品の表題作「夜に虚就く」では夜学校に忍び込んだ人間の少女がクリーチャーに捕まりレイプされ妻にされてしまうがそこで描かれるのは、暴力的な光景というよりもむしろ静謐な光景である。クリーチャーにレイプされペニスにつながれたままの少女は、クリーチャーとの共同生活を楽しみ自らもクリーチャーーと変化しつつ、妊娠と出産をし母性をはぐくむほのぼのとしたあたたかみのある作品であると読者に感じさせる。
このようなほりほねの<少女>を様々な要素の受容体として描くという作風は、多様なセクシャリティや表現を許容するという点で圧倒的に「リベラル」であり、現実の息苦しい性を解放しある種の倫理性をもたらすと思われる。そしてかわいらしいが非常にグロテスクなほりほねが描くクリーチャーたちはまさしく<他者>であると同時に親しみやすい隣人のようでもある。もしかしたら宮台がかつて考えて、そこで生き延びるべきだといた終わりなき日常とはほりほねの描いたような世界なのかもしれない。

●第五章

 さて先のほりほねのような多様な形態を許容する表現は線によって素描された表現というマンガというメディアと無関係ではない。マンガでは現実に準拠せずに徹底的に現実と切れた自立した虚構空間というべき世界を作ることができる。しかし、そのような現実から遊離したハイパーリアリティがマンガの本質であるというような理論の不十分性を指摘しているのが大塚英志の記号的身体論である。
大塚によればマンガ表現は決して虚構だけで自立しているのではない。むしろ虚構であり記号でありただ単に線画によって素描されたマンガがふと現実と結びついて、つまり身体性をもってしまう瞬間(そして大塚にとって現実と虚構をつなぐチャンネルは特権的な「死」である)が存在すること、これこそがマンガ表現の特徴であるとした。これは手塚治虫の「勝利の日まで」というマンガを例にして分析され、これが戦後マンガの起源となり大塚のマンガ史観はこのような理論によって規定されている。
大塚は少女論を書いていたことでも有名だが、この記号的身体論と少女論をこうさして論じている文章が『「おたく」の精神史』所収の自殺したアイドル岡田有希子を論じた文章である。
大塚は岡田が自殺した当時、いわゆる新人類世代がアイドルを論じてそれこそ先ほど論じたエロマンガのようにヴァーチャルな身体であることを肯定して生身の身体を排除していく志向があったと同時にまた女性の側自身も自らの女性性を忌避するという二重の女性性の排除があったということを指摘している。そして大塚はこの二重の排除が岡田の自殺を準備した物ではないかと推理する。大塚によれば岡田は他者の欲望によってカスタマイズされた虚構的な生を生きていた(岡田の日記は変体少女文字のおとめちっく文体で書かれている)を生き岡田の身体はそのようなシュミレーショニズムのせめぎあいの場となっていた。しかし、岡田にはそのようなシュミレーションには還元できない内面が存在し、それが岡田を死に導いたと結論する。
ここでいままでの見てきた<少女>論にひきつけて考えよう。一章で論じたように<少女>は<他者>としてイメージされている。大塚の論もこのイメージにのっとっている。しかし一方で大塚は<少女>が徹底して<他者>であるにもかかわらず様々にカスタマイズしうるバーチャルな存在としてしか現れ得ないという二重の存在であるというパラドックスを抉り出している。還元不可能な内面を前提とする大塚のロジックはむろん三章で論じたようなむやみに<少女>を超越化させる少女幻想に落ち込んでいるが、大塚の論は示唆的である。つまりここで課題はヴァーチャルな存在としてしか存在し得ない<少女>がそれでも超越的な何かを維持させつつ描くにはどうしたらいいか、ということである。
ここでその可能性を示しているのはエロマンガ家の氏賀Y太が書いた『まいちゃんの日常』である。氏賀は内臓などのグロや四肢切断などの猟奇描写をとくいとする作家であり、その代表的な作家であると言っていい。『まいちゃん』ではある屋敷でメイド兼娼婦として働いている「まい」が陵辱される様を描く物語だが、興味深いことに「まい」はいくら傷つけられても体が再生してしまうという不死身の体を持っておりそれゆえ客から残虐な陵辱をうけるさまが全編に渡って描かれている。
この不死身の<少女>という設定は、まさに宮台のいうようなタフな<少女>のパロディともいえなくもない。しかし、ここで氏賀が描いているのはその逆であり、不死身の少女の弱さである。まいは不死身であるゆえに死というものをしらない。むしろ死とは徹底的にすれ違い続ける存在である。だからこそまいは友人の死や身ごもった赤ちゃんの死をアクチュアルに感じることができる。氏賀はこのようなねじれた構造を非常にうまく描いている。この氏賀の作品は大塚的な罠をすり抜けつつも大塚が追い求めていた<少女>のなかの<他者>性を描くことに成功するのである。

●終章

以上のようにここまで<少女>を論じてきた。この探究でわかったのが<少女>という概念が暴力的であったり少女幻想を振り撒いたりと危険と隣りあわせであるということであるる。また<少女>とは様々なオーダーで様々な様態で存在している。むしろその散種性こそが<少女>というものなのであり、その探究は必然的に終わりなきものとなるだろう。

書評
本書は<少女>批評論序説と題されていて序章において<少女>とは何かを探究すると宣言されているが、しかし本書は<少女>とは何かについて理解を深められるような書物ではない。端的にいって非常にわかりにくい。というのも本書を読み進めれば読み進めるほど峰尾のいう<少女>という概念がわからなくなってくるからだ。
 第一章では<少女>という概念はいわゆる美少女ゲームにおける美少女キャラとなっているが、二章では、美少女キャラのみならず美少女キャラと視点キャラとプレイヤー(読者)との3項関係となっておりさしている物が全く違う。
ではなぜ本書はこのようにわかりにくいのだろうか。評者が考えるにおそらく峰尾が<少女>論とオーバーラップさせて「批評」論をしようとしていると思われるからだ。
<少女>論のフリをした「批評」論とはなんだろうか。その前におそらく峰尾が前提としていると思われる批評史上の出来事をみてみよう。それは大塚英志と宮台真司の活動である。
宮台は95年のオウム事件の年にオウム事件のアンサーとして『終わりなき日常を生きろ』を出版している。そこで宮台はオウム対ブルセラ女子高生という対立軸を作り95年当時の人々が生きるための処方箋を提示している。
宮台によればオウム真理教の特徴は、リオタール言う大きな物語の終焉、つまりマルクス主義のような革命の物語が失効したあとに、それにもかかわらずまた大きな物語を捏造しようとすることである。つまり、オウムとその信者達は革命の物語のような超越的な理想をすてきれない。そのためにこそグロテスクな宗教的儀式やサリンというようなテロ行為に走ることになる。
一方で宮台はブルセラ少女達をオウムに対置する。宮台は大きな物語が終焉しなにも大きな出来事が起きないフラットな世界を「終わりなき日常」と名づける。そしてオウムとちがって「終わりなき日常」に適応できる者として、物語がなく過剰流動的な世界のなかでタフに生きる存在としてブルセラ少女や援交少女を肯定する。彼女達はもはや大きな物語を求めない。むしろ軽々とパンツをうったり体を売ったりするライフスタイルが彼女達が終わりなき日常に適応していることの証明となる。
しかし、その宮台に対し異議を唱えたのが大塚英志であった。大塚は過剰流動性に適応しているかに見えるブルセラ少女も実は傷ついているんだと論じている。この論争自体は単なるすれ違いであるが、実は大変示唆的な論争である。
というのも宮台は『サブカルチャー神話解体』で大塚英志の少女論を一蹴し、当初は大塚の反論をあしらっていたにも関わらず、後に大塚の論争にある面では敗北したと認め、そして“あえて”超越性を求める立場へと転向することになったからだ。95年の時点では宮台は超越性を希求することを否定していた。しかし2000年頃の『サイファ』では世界の根源的未規定性という概念を出して超越への注意を促している。その後宮台は悪名高い“あえて”天皇制というような発言をするようになる。
ここで峰尾の<少女>論と宮台の道行きがオーバーラップする。峰尾は三章においてセカイ系と米澤穂信を論じているがこの部分は宮台の変節を<少女>論を借りつつ、批評家の一つのありうるパターンとして論じているように思われるからだ。ここではセカイ系はオウム真理教に対応するだろう。オウムはサブカルチャーというジャンクを使って大きな物語を捏造したが、セカイ系は萌え美少女という「ジャンク」によって大状況と小状況をつなぐ。米澤の部分は宮台の“あえて”天皇論と対応する。
このように峰尾の論は「批評」史上で起こった議論の類型を実は<少女>論として語っている。一章と二章は、薄められたデリダ的他者論をパターン化して相対化していると読めるし、三章は東浩紀が『存在論的、郵便的』で行ったような否定神学批判をなぞっている。また四章五章は明らかに伊藤剛のキャラ/キャラクター論と大塚英志のアクロバティックな社会反映論の対立を踏まえている。そして最後の氏賀Y太の不死身の人間こそが死を感じることができるという主張は東の『ゲーム的リアリズムの誕生』の議論からでてきたものであろう。
いうまでもなくここで我々、評者と読者が躓くのはなぜ「批評」論が<少女>論として語られなければならないのかということである。少女と批評、そこに何か特別な関係がなければならないというのだろうか。評者は峰尾のこの批評と少女の結びつきを肯定したいと思う。というのも評者には少女と批評が結びつかなければならない必然性がわかるからだ。
なぜなら少女と批評は必然的に批評を語る私、少女を語る私というようなメタ意識を要請するからだ。批評はあるテキストを読みそれを解釈していく試みだがいうまでもなくその読むテキストの範囲を決定すること自体がその批評行為の賭けとなる。読むテキストの範囲はもしかしたら当の自分自身である可能性もありうる。
無論少女を論ずることは全く同じ困難が存在している。峰尾が本書の二章で論じているように、例えば物語メディアの少女を論じる時には物語に内在するだけでなく、視点キャラやそれに憑依するプレイヤーとの関係性を考えなくてはならない。それは批評における読むテキストの範囲の設定に他ならない。そして宇野常寛のレイプファンタジーという概念は少女と批評の結びつきを利用して、テキストの範囲設定という批評的賭けを安っぽいお笑い話に物語化したものに他ならない。
さらに言えば批評はまさに経験的な領域ではない、超越的な問題を扱う言説である。そして峰尾が「批評」論を<少女>論として書いたということは峰尾の世代においてはもはや超越的な問題を語るための素材がオタク文化における<少女>ぐらいしか存在しないという厳しい現状を物語っているだろう。ゆえにこの峰尾のこの本は2008年において20代前半の若者がどのようにして超越的な問題を語るかの症例を示すいいサンプルとなっている。
とはいえ本書には不満もある峰尾は結局のところあまりにも貧しい手持ちの論理でしか<少女>論ができていない。例もっと論点を広げられるはずだ。えばもっと哲学や社会の問題やらを結びつけるなどしてもよかっただろう。また、無理に<少女>的なものを相対化しようとしたため、全体的に各論に「熱さ」がない。もっと野蛮に論じてもいいのではないか。
しかし、最大の問題は峰尾が論ずる<少女>の対象の狭さだろう。基本的に峰尾がオタク文化と一部の評論で取り上げられたところから素材を持ってきただけで題材があまりにも狭すぎるという問題にとどまらない。もっと問題なのは<少女>論をやる時に、「これも<少女>に関する問題だったのか!」というような全く新しいフロンティアを開拓できていないということだ。批評はダイナミズムは今まであるフレームにおいて論評の対象とされていなかったものがそのフレームにおいて実は論評できるということを発見していくことで生まれるはずだ。
また真逆なようだが、峰尾には今言ったようなことの逆、つまり今まで<少女>の問題だったものが実は全く違っていたというなことを発見するという事もして欲しかった。峰尾は超越的な問題を少女としてしか語る術をもたない。では彼は<少女>という枠組みがなくなったときどのような批評をつむぐのだろうか。今後の活動に期待したい。
(掲載紙:群象)