第三関門 自著要約・書評 評価・東浩紀氏コメント

※注※ 総合評価は、自著要約の評価と書評の評価の単純な合計ではありません。

みなみ

女性27歳
合否 :
評価 : 自著要約B/書評D/総合C
◎プロフィール
東浩紀氏コメント 押井論。主題は明確で、書き手の押井への愛も伝わってくる。しかし、哲学論文的な構成に捕らわれるあまり、無駄に仰々しい著作になっている。そんな必要があるかどうか。また、現状では普通には押井の深読み本にしか見えない。その印象を何らかの方法で変える必要がある。出版までにはかなり修正が必要だろう。書評は単なる自著宣伝文になっていて評価できない。とはいえ、最後の段落で書き手の自意識が突然のように表出していて、そこにはひっかかりを覚えた。
自著要約

◆目次

0.はじめに

1. 美的範疇論:身体論  

(ア)  美的範疇論
[1] 美の本質規定
[2] 機械論 生物/無生物。機能美
[3] 動物 人間/動物、意識/無意識
(イ)  身体論;人形論
[1] 部分と全体
[2] 身体の不在(他者媒介性)→外在化模倣願望
[3] 美醜の問題
[4] 身体/精神
・補:「食」について

2. 言語分析   

(ア) 引用の多さについて 
(イ) ことばの自律性と、引用の意義
(ウ) 引用文献の具体例
(エ) 文体論

3. 時間空間論  

(ア) 現実空間 
[1] 都市論 
[2] 建築論
[3] 廃墟論:ゴミ捨て場;ゴミとは何か
1. 都市の破壊と終末論
(イ) 異空間
[1] 日常の隣の異空間 
[2] 祝祭的空間;台風、戒厳令、水と雨、文化祭前日
[3] 日常性の担保としてのコンビニ
・補:時間論:「浦島伝説」による時間認識論;無限定的時間と限定的空間

4. 結語

(ア) 虚構と現実:虚構の重要性
(イ) 可能世界論
[1] 作品内作品:メタ構造
[2] 可能的世界

0.はじめに:目的の設定

 映画監督に作家性は存在するのか。そもそもの問いはそこから発するかもしれない。たとえばタルコフスキイは作家たりえたかもしれないが、映画づくりは集団作業でありその他規制もともなう。しかし、個性や作家性といったものは、一本の映画をつくったその先に存在するものであって、結果として作品に表出するものである、という押井の弁を信じるなら作家性を語ることは可能であろう。
本著の目的は、押井守の問題意識の在処を、それが作品世界をとおして、いかに表出しているのかを問い、その思索的根拠、理論的地平を明らかとすることである。
「映画をつくるたびにいろいろなことを言って、それでまた前言を撤回したりして、そのたびに答えらしきものを引き出すしかない。そこには持続性も少しあるが、その持続が答えにはなりえない」と語る押井守は、そもそも一貫した理念のみにかたくなにもとづいて制作し発言することには否定的であり、つまり、そのときどきにおいて人間が変化している以上、発言内容その他もそれとともに変化すべきものであるとする。だとすれば批評がとりうる態度として、時系列に則して、個別具体的作品なり発言なりを追うべき必然性があるのかもしれないが、作品内部にテーマは遍在していることをも鑑みここではトピックから作品や発言をひく体裁をとる。
 また、たとえ個人を扱い語ろうとも、虚構を描く際の素材はつねに現実から引いてくるものであり、その「選択」によってなされた作品世界であるならば、見えてくるのは現実であり社会でもあるだろう。
 さらにそこに評者がなんらかの意義を加えうるとすれば、人類史においてこれまで連綿と語られてきた人間の想像力や思考、美学的知見を手掛かりとして、その思考の親近性や位置づけの対比ないし意味づけができるかもしれない、という淡い期待である。押井本人は「人間」より「人類」、「個別的」より「普遍的」であることを重視するが、近代以降の人間が思考した結末にある種の普遍性を示しているならば、そしてもしその親近性なりが現在においてもなお、違う文脈でこの監督のなかに立ち現れているとすれば、その位相を考えることは無駄ではないはずである。

1.美的範疇論、身体論 

1.美的範疇論
1−1−1.美の本質規定
 美しいということはただ美しいという事実においてのみ規定され、それは先見性に属する、というのが押井監督の持論であるが、要するに直感である。
 神は六日間かけて世界をつくり、見なくてもわかっているはずなのに、あえて世界を見て、そして良かったと言う――とは、『旧約聖書』の創世記の第一章であるが、つまり美しさとは、計算や知性を超えたものであり、しかるに今までの理性的原理が崩壊しつつあるときに、その良さを判断する尺度として有効なものこそ直感であり美しさではないだろうか(と、少なくとも評者は確信する)。
 要するにそれゆえにある種の絶対性を保持しうるということであり、押井監督も、映画を見る際にも美しいかそうでないかといった観点を重要視しており、美とは人間のもつ根源的欲求といってもよいであろう。
 こういった観点について、本章では次項以降で詳しく検討する。

1−1−2.【機械】生物/無生物 機能美
美しさについて、ここでは機能美について考える。主として、機械である。
押井も語るように、美しさを認識するさいに高尚な芸術作品であるならば、それを理解するのに教養が必要であり、要するに文化受容、芸術享受の問題が立ちはだかる。が、それ自体として、機能を追求したがゆえに、つまり人間の自意識の介在なしに、合目的的に美へと至ってしまったのが機能美である。その代表たる武器、戦闘機などを概括しながら、同時に発生する生物/無生物、人間/機械という論点で考える。
 人間と機械の対立というものもデカルトを代表して語られてきたテーマであるが、人間それ自体は美しくない(ことが多い)が、人間の所産たる機械は美しいという押井の論を考察する。
生物/無生物をさらに下層分類して、つぎに動物/人間という対立項に移る。
1−1−3/【動物】人間/動物:意識/無意識 認識能力
 機械はそれ自体として美しいが、人間は美しくない。死体も小説のなかで表れれば美しいが、現実の死体は美しくなく、鳥や獣といった動物について考えてみればその無駄のない動き、果ては骨まで美しいのに、人間は骸骨には恐怖しか感じることができないという。それはなぜか。押井が結論づけるところでは、それは自意識の介在である。
 認識能力すらも人間は不完全であり、それもこの自意識に由来するという論点を、イギリスロマン派の詩人が詠んだ詩(動物は無意識であるがゆえに感得できる情緒についてなど)を振り返りつつその思想的根拠に接近する。

1−2.身体論:人形論
SF的想像力が先行するが、サイバネティクスや『ニューロマンサー』によって案出されたような、脳内感覚による体験と仮構世界というものを、未来世界として想像しがちであり、実際のところマンマシンインタフェイスの時代以降、われわれはモニタをとおして世界を認識することが多く、それゆえに視覚や脳の比重が増しており、そこからくる身体喪失というのも当然あるわけであるが、しかしながら、そこで「体験」というものが頭脳によるものだ言い切ってしてしまえば、それは感覚を脳に局在化するものであり、一種の観念論である。世界とは身体を介して認識するものであると言ったメルロ=ポンティの弁を待つまでもなく、われわれは身体を持って世界に関わって存在しているのであり、自我や認識・思考、情報の伝達、持続といったものも、身体から生じる。ここでは、身体について考える。

1−2−1.部分と全体
人間は個々のセンスデータとして部分を見つつも、トータルな全体として対象を把握するとするゲシュタルト心理学などがあるが、部分と全体というテーマから、身体論に接近する。
アニメの世界に入ってから身体を意識するようになり、さらには実写映画を撮った際に、生身の人間の身体の不自由さを感じたと監督は語るが、押井の複数の作品を通して身体に関する問題が貫かれている。「そもそも演技というものは、基本的に顔でみせるものであり、また映画のなかの身体が顔である」ように、人間にとって身体はどこかパーツとして意識され、自分自身も女の人の足や手を好んで撮るとする。
 快不快の感情を超えた、身体にとっての間接や骨への嗜好と、パーツとしての身体を意識したときに、その削除、結合、再結合、といった観点を検討する。つぎに、人間の身体も機械的に構成されているという観点に移る。
そうして考えたときに、そもそもわれわれは身体というものを持続ではなく、「パートタイム」としてしか意識していないのではないか、とする「パートタイムとしての身体」まで論点を拡張する。cf.ラブレー論とグロテスク。
 ちなみに部分/全体という問題は、後述する、ディテールとしての言語の論点にもつながる。

1−2−2.身体の不在(他者)→外在化模倣願望
そもそも『攻殻』においては、サイボーグ=冷たい身体という非生命的、また自壊する身体を通した、壊れていくパラダイムを描いている。が、続編『イノセンス』においては、不在によって存在を示すという意識で表現されている。
本項では、身体の不在について考える。現代のわれわれは身体認識が前述のとおり希薄であり、不自由・不快感を契機として再認識する。押井は、われわれにとって身体というものはない、その欠落を埋める対象としての人形制作や動物飼いという行為があるとする。そもそもからして、われわれは身体を内側から知ることはできず、つねに他人や動物といった他者を介し、外部からしか身体を認識しえない、とする。死体として、「もの」になってとしても、やはりそれは外側からの視点である。
この他者媒介性といった発想や、生成途上としての不完全な身体と、最終的な、普遍的なものとしての死体という観点は、バフチンが唱えた他者性や共存在との親近性を看取できる。
いずれにしても、客体としてのみ意識しうるがゆえに、人間の身体の外在化欲求、ヒトガタの模倣願望というものがうまれてくると説く(人形)。

1−2−3.美醜の問題 大きさと不気味の境界
 美の対極にあるのが、醜の概念である。「醜の美学」を言い出したのはローゼンクランツであるが、そうしたことにもわれわれはしばし美的なものを見出してしまうのであり、たとえば欠けているがゆえの美しさ、というのも存在する。付随して、不在による表現、欠落するがゆえの強調といったデヴァイスを効果的に用いている点を考察。
 ここでやはり、ではそもそも美しさをどこからわれわれは感得するのかという根本問題に立ち返ってしまうわけであるが、古代に目を転じればアリストテレスは『詩学』のなかで、大きさの重要性について語り(われわれの認知外に至るとそれはカント以降は「崇高」となる)、同様に、押井も人形に関しての考察で、そのサイズは重要性をとく。抽象化を経たサイズによって人形は人形たりえるとする。不気味さを感じる境界という点では、フロイトの「不気味の谷」などを参照しうるだろう。

1-2-4. 身体/精神(自我):人間の本質の規定根拠の発生どころとしての身体
(容れ物としての)身体/(中身としての)精神[魂、自我]という問題系は人類が営々と、とくに近代小説の発展とともに取り組んできた二項対立である。それが現代あるいは押井作品においていかに結実しているかといえば、つまり科学的発展を遂げた近未来という世界設定のもとに、身体が不在でありつつ自我は実在するという設定が可能になっている点であり、そういった身体と魂との関係図式が、さまざま組み合わさって、キャラクタをとおして複合的に示されているのが『イノセンス』なのである。
 さらには、そもそもわれわれの自我はどこから発生するのか。『攻殻』がはらむ問題のひとつはそれである。他人と分かつ身体によって自己認識をするのに、脳以外は擬体で構成された自分の自我について素子は自問するのである。自我そのものも脳から発生すると思われがちだが、人間は身体によって自我を構成し、意識まで変容させていくという論理によって作品は構築されている。

補:身体維持機能としての「食」
 身体論に関する補足。
 現在、若い映画監督の作品のなかに、食事描写が少なくなってきているという。この体は食べなければ生きていくことはできない、と古くは、ブッダの言行録にもあるが、われわれの身体維持には食は欠かせない要素である。
 そもそも、小説なりを執筆する際にも、まずは食事シーンから書き始めるという監督は、映画作品にも食事のシーンは意図的に挿入されており、それは牛丼屋やラーメン屋や立ち食いそば屋やレストランや犬の食事の細密さであったり、あるいはコンビニにおけるディテールや、『BD』の買い物シーンにおける過度な具体性である。
 ここでは、「食」に着目して、作品内における「食」のディテールや「食べる」という行為を考える。

2.言語分析

 前章では美について論じたが、美が直感によってもたらされる受動的で純粋にセンスデータに依存する感性的なものであるならば、それに対して、言語的なものは悟性に基づく。しかし同時に、言語的なものも、作品内で美しさを構成要素として機能することも忘れてはならないだろう。以降で具体的に考える。

2−1.引用の多さについて
ゴダールも作品内において引用を多く用い、それが魅力ともなっているわけであるが、われわれがここで論じている押井監督も引用が多い。
 いまや有力なソフトとして日本を牽引するアニメーション映画だけについて考えても、確かに優良なものがさまざまあるが、相対的に、われわれが押井の作品に惹かれる点をひとつ挙げるならば、そこに視覚的要素としての美のみならず、エンターテイメント性を保持しつつもその映画が極めて知的かつ思索に基づいて作成されているからである。
映画制作とは、自分が観てきた膨大な映画の記憶を検索して組みなおす作業であるとするが、押井の作品が単なる過去の体験の再生産となることを回避しているのは、映画監督は多くの映画を観、本をたくさん読んでいるのは基本、とする哲学が要因であろう。
そういったわけで、ことばはディテールのみならず、物語の根幹にもかかわるものであり、書かれる脚本には、映画、評論、小説、古典など、古今東西から引用がなされ、俳句や警句まで、ことばのコレクショナーたる監督の神髄が現れる。以下で具体的に考える。

2−2.ことばの自律性:引用・パロディの意義
 言語の限界は思考の限界と言うが、日本語を選択して日本語に基づいて語る以上、やはりその選択と内容と意味は意識的でなければならず、なおかつそこに作家の知性やセンスが問われる。
 そもそも映画のセリフというものは、物語に対して従属的であり、したがって、物語を進めるという任務をおう以上は説明的にならざるをえない部分が必ず存在する。それに対抗して、ドラマに従属することなく、ダイアログがそれ自体として独立性と意味を持ったものたらしめたいという動機から、引用がディテールとして機能するよう意図的に使われる。cf.物語/ドラマの差異の認識。
 それはまた、ディテールを散在させることで、観客個々人の共感可能性を複数的に投棄する試みでもある。
さらに、これは映画に対する構造の意識にも直結し、押井監督は、部分を見て全体を語り、また全体を割り出してから部分すなわちディテールを見ることも可能な構造を称揚する。具体的には、初めに預言=エピグラフとして結論を提示することによる理論的強度の獲得などが挙げられる。  このように本項では、ディテールの集積として完成されるべき映画という視点で論じ、また、ドラマはなくても成立するという観点、筋と装飾[ディテール]という点を取り上げる。cf.プラトンとアリストテレスの悲劇論の違い。

2−3.引用文献の具体的考察
 項を改め、ここでは具体的に、プライマリを参照しながらその思想に迫っていく。先にも述べたが、小説においては、洋の東西を問わずウェーバーから『論語』、ドーキンスや世阿弥、中村苑子など多岐にわたる。
 たとえば聖書的モチーフひとつを考えても、野明(ノア)という女主人公の名がそもそも示唆的であり、エホバなどはそこから意識的に名付けられたわけであるが、そのようにキャラクタの名を通して端的にあらわされる表象もあれば、鳥・魚・天使、といった小物使いであらわされる場合もある。
 このようにこのセクションでは具体的に例示して考察していく。

2−4.文体論
 『BD』における学生運動のアジテーション的意匠、日本映画のパロディ、論文的文体などのレトリック分析をする。

3.時間空間論

 押井作品にみられる時空間論。ここでは、押井作品に登場する「場」、「空間」について考える。
3−1現実空間
3−1−2.建築論
監督が、映画の三要素としてあげるのが、物語、キャラクタ、そして世界観である。
 元来のアニメならではの風景や建築物の記号的設定を排するために、建築とその細部への執着と背景美術の情報量の獲得を目指す。情報の総量からいっても現実にまさるものがあるはずもなく、よってロケハンを敢行し、現実に規定根拠を置く。ただ、そのまま写し取っても物語はそこに胚胎せず、何かしらの仮構が必要である。
様式の選択は恣意や趣味で決定すべきものではなく、世界観と直結する建築様式でなければならないわけであるが、では、実際に選択された様式とはいかなるものか。作品内において現れる、西洋と中華の折衷様式たる「中華ゴシック」や、『天使のたまご』におけるフランスの地方都市的風景、香港島のビル群やNYの垂直都市的ランドスケープなど、建築に特化して考える。
 自然環境に対する建築の優位という確信についても芸術と自然という対立項から興味深い。

3−1−1都市論
 建築は都市の構成要素のひとつである。ここでは議論を抽象化させて、「都市」とは何かについて考える。
 ある意味、先に述べた「身体の不在」と直結するのが都市についての認識であり、つまり現代のわれわれは都市という外部記憶装置のほうに身体を預けていると押井は語る。都市というものは身体の拡張である。つまり、人間の情報が遺伝子を介して伝達されるとすれば、人間の残した都市もまた巨大な情報記憶装置としての拡張された身体=表現型であるからだ。
このような押井の都市認識を振り返りつつ、作品において扱われる「東京」という都市や西洋と比較したときの日本人の都市認識を考察する。

3−1−3.廃墟論;ゴミ捨て場、ゴミとは何か
 ここで少し脱線しつつ、議論を抽象化させる。ゴミとはそもそも何か。
 イリヤ・カバコフは、ゴミそのものをポップアートとして成立させたりもしているが、ゴミ、すなわち廃棄物とは、われわれが日常生活から排出されたものであり、エネルギー保存の法則からしても、何某かのものが産出された以上、ゴミもつねに生み出される。要するに、現代、日常で出るゴミからの個人情報の漏えいに神経質になっているように(レシートなど)、ゴミを分析することで、必然、個々人の生活も明らかとなる性質を帯びている。
 作品論に戻ると、特別な場として印象深いもののひとつに、廃墟がある。
 嵐のなかで崩れる方舟(『天使のたまご』)、『パト2』のゴミ埋立地、荒廃した友引町、『Avalon』のゲーム内世界。ゴミの山や廃墟といったものは一種、美的基準としてあり、いちばん不純物がない、つまりある要素のみで構成されているという世界観をそこに見る。
 また廃墟に関しては、3つの時間が流れているとする。廃墟としての現在、未来においてこうなるであろうという意味合いにおいて、過去のものである、という3つの時間が同じ場所で漂う究極の場所であると。
 そうした点を考えつつ、廃墟が終末をも表わすならば、終末的風景という点でも考えたい。
監督も語るように、日本において特異なのは、自分たちの住む街を壊す作品が多いということであり、東京そのものをよく壊す。漫画やアニメ作品においても、都心が壊滅的に壊されることは少なくなく、荒廃した都心や水没する都庁などが原風景的に思い浮かぶ。なぜにわれわれはこうも「東京」という都市を壊したがるのか、という問題についても考えてみたい。

つぎに異空間について論議を移行させる。
3−2.異空間
3−2−1.日常の隣の異次元
 人はつねに遠くにあるものに憧れるとニーチェは言った。
 擬似体験や仮構世界が描かれることが多いが、ゲーム内や近未来の東京といったその場は、完全なファンタジー世界ではなく、基本的にはわれわれの現実世界を構成する倫理ないし論理・因果律にもとづく。あるいは、日常からの移行であっても、劇的変化ではなく、いつもの車内がふと気がつくと変わっていたり、いつもの路地裏に見る異空間であり、これは現実世界においても、真夏の昼下がりの都内の裏路地でわれわれも感じうる異界性みたいなものであるかもしれない。
おそらく大事なのは、極端なズレがもたらされた異界ではなく、いつもの日常のすぐ隣に存在する異空間であるという点である。

3−2−2.祝祭的空間
 それは、いつもの友引町が温泉マークの発見を契機として現れる漸次的変化であったり、そのプロトタイプ;青写真といえるTV版において押井自身が脚本を担当したおけるあたるの母のエピソードであるとか銭湯のアルバイトの挿話、『パト2』における戒厳令下の東京であったり、『Avalon』のゲーム内世界である。
 そのなかでも特徴づけるとすれば、たとえば『BD』における、文化祭前日という同じ一日が繰り返されるというモチーフ、また『パト2』における戒厳令下の東京、そして風速四〇メートル以上の大型台風の接近による状況といったものは、いずれも「祝祭」的空間である。
 押井監督の好むモチーフとして水・雨の描写があるが、雨に見舞われた場や水没した水族館といった空間も、祝祭空間創出の装置のひとつとみることができるかもしれない。

3−2−3.日常性の担保としてのコンビニ
 『BD』において、荒廃した友引町において唯一その日常性というものを保ってものが新聞配達と、空間としてのコンビニエンスストアである。その後の作品においても、コンビニは登場する。この表現密度は映画を撮るごとに倍化の様相を呈している。
 われわれの社会においても、コンビニエンスストアは当たり前の風景として日常に溶け込み、必要不可欠なもの、時間やカテゴリを超越したものとして存在している。ここではコンビニへの執着と、それの果たす機能について抽象化して考える。

補:時間論:「浦島伝説」による時間認識論;無限定的時間と限定的空間

視点を「空間」から「時間」に移す。『BD』において白眉なのは、『浦島太郎』の説話を下敷きとして時間認識を扱った点にある。浦島的からくりに気付いた温泉マークがサクラ先生に語るシーンは、360度のパンや美しいBGMと相まって非常に印象的なシーンである。その後、友引町が開き直ったかのごとくその偉容を現したときに明らかとなるのが、亀の上に乗った友引町というシュールレアリスムの極致なのだが、その限定された「空間」としての友引町に対して、無限定に拡がるのが「時間」である。

(この作品を契機として「浦島伝説」について調べ上げた評者に言わせると、浦島論に関してだけ考えても、その因果的帰結の不合理性であるとか成立・伝播の背景、など非常に興味深い点を内包しているのであるのだが)。
われわれは時間認識と作品とともに考える。

4.結語

4−1.虚構と現実:虚構の重要性
 たとえばわれわれはRPGのクリアー前のプレイ途中であった場合、ゲームに接していない時間であっても、体半分がそっちの世界に持っていかれているような感覚で日常を過ごすことがある。
『BD』において夢邪鬼が語る、荘子の「胡蝶の夢」の比喩は象徴的である。夢と現実の差異。虚構にも現実にもそれほどの差異はなく、虚構は現実に比べて、なんら価値の劣るものではないと押井監督は断言する。
夢やゲーム内世界といった非現実を舞台として多く描きつつも、夢を描くことによって逆に現実の構造なり倫理が現れたりもするわけだが、ここでは、虚構を描くということにどういうスタンスで臨んでいるかを考察する。

4−2.可能世界論
4−2−1.作品内作品(虚構のそれ);メタ構造
虚構というのは、つまり言い換えれば、人間の想像力による可能世界の案出である。
押井作品の特徴のひとつに、物語の入れ子構造をギミックとして楽しむ姿勢が挙げられる。すなわち、作品内作品、あるいは架空の作品、文献を登場させ、さも実在するかのように虚構作品からの引用をキャラクタに語らせる。たとえば、『BD』におけるメガネが語る『友引前史』や、『立喰師』で実在するかのように語られる作品内の架空の書物である。その点に着目して本項ではまとめる。

4−2−2.虚構=?可能的世界
 われわれは何かを選択することで、ありえたかもしれない別の可能性を削除している。
 前述の実写映画『立喰師列伝』は、立ち食いという日本の伝統に則して民俗学的に基底しつつ、総括しているのは他ならぬ日本の戦後史であり、また現在も続刊が予定されている『雷轟』シリーズは架空戦史である。描かれる近未来の東京像にしても、ありえたかもしれない「東京」というものであり、可能性の一部としての虚構である。
想像、つまり可能世界と現実とはどちらが先行するのか。 一九世紀末の文人オスカー・ワイルドは「芸術が現実に先行する」と言い切ったが、つまり虚構において「体験」した記憶が、実体験において既視感をともなって認識されることはままあるわけであるが、より深く考えてみるならば、可能性という問題に関しては、スピノザに端を発し、ライプニッツ、カント、ウィトゲンシュタインまで可能的世界/現実については哲学的トピックであった。
 ともあれ、虚構の重要性について総括するならば、われわれの人生そのものが極めてゲーム的であり、なおかつ、最後に人間を動かすのは幻想だ、と語ったのはナポレオンであるが、やはり最終的にわれわれを駆動するのは妄想である。現実社会で稀少になった何かを虚構内で補完するといった動機ではなくして、快楽原則に基礎をおいたときに、われわれは何かしらの虚構をつねに自然に求めるのではあるまいか。
――といったことを夢想しながら今後も監督の作品に接していきたい、といったある種の結論(?)を目指し、本著は終結する。

書評
 十代半ばに『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の洗礼を受けた八〇年代生まれの著者による押井論である。
 押井守といえば、一九九五年の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』で海外から注目を浴び、同映画を収録したビデオはアメリカ『ビルボード』誌のホームビデオ部門で売上1位を記録、二〇〇四年には『イノセンス』が第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされたりと、いまや現在の日本アニメーションを牽引する監督である。今年は、もうまもなく、八月に最新作『スカイ・クロラ』の公開を控えている。
押井監督というと、『攻殻機動隊』の先見性や、その後の影響度から、とかくコンピュータ社会やサイバーパンクの先駆けとして見られる。議論されるさいにも、映像的側面から特徴を取り上げて、たとえば『マトリックス』との類似性が取り上げられることが多い。
 しかしこの本では、そうした観点や映画的手法ではなく、押井監督の哲学を読み解くことを主眼として書かれている。したがって、作品論というよりは、作品を通してそこに表れている思想を分析するというスタイルを選択している。
 そこで語られるのは、機械論から始まって、自意識の問題であるとか、身体論、ことばの自律性、文体論、果ては都市論から建築、可能世界、など、察するに哲学的術語を端緒としていて、押井監督の作品が知的であることは感じていたが、こんなに難しいことを語っていたのか!と、これを読むと思ってしまう。ちょっと教養主義的な感じがするくらい、古代ギリシャから現代思想の哲学者までやたらと出てくるので、ところどころ説得されるような、あるいはこれって共通項として提示していいのか、とか考えたりするが、ふと、この言及それ自体がある種の彩りを添えていることに気づいた。
 この本で、押井作品における引用やパロディの多さについて語られているけれども、実はこの本自体もその方法論を踏襲している。つまり文章に引用が多い。要するに、これ自体が、なんというか、周到なパロディなのだ。
 しかしながら、この本で印象的なのはムズカシイトピックを設定した本論からは多少脱線した補足的部分であったりもする。この作者は、身体論や空間分析をしつつ、そこから派生して、突然ゴミとは何かを考察したり、コンビニがどうとか、浦島太郎について延々と述べた箇所があるのだが、そういったコラムにこの著者はエネルギーをもって書いているようにも思えてしまって、個人的にも楽しく読めてしまった。
 ところで、押井守原理主義者を標榜するこの作者が資本を投下したと思われるのが、ロケハンめぐりである。この本によると、押井監督は、原風景獲得とイメージハンティングのためにロケハンを映画制作のさいに重視するようで、この著者はその際にまわった都市を実際にその追体験と称してめぐっているのである! 国内は伊豆高原の美術館巡りから、ニューヨーク、フィレンツェ、パリ、ミュンヘン、香港、ロンドンなどなど……。そのため、図版が豊富であり、途中、なにやら旅日記的雰囲気も折り込み、それはそれで独立して読みやすい仕上がりとなっている。なおかつ映画のなかのミリタリィ関係考察の項では、武器・戦闘機分析のために実際に米軍基地へ行ってヘリに乗ったり兵器に触れたりと、まあフィールドワーク重視の姿勢というか、フットワークの軽さはうらやましい限りだ。
 これまで、押井守本人や、その作品に関して、断片的に識者によって語られることはあったが、まとまった、総体的な批評本が出ていなかったことを考えると、それ自体として意義深い試みではあるだろう。昨今のCOOL JAPANブームや日本のアニメに関して、たとえば海外の人間から問われたときに、参照項として紹介できる本がすぐには思い浮かばない。ファン個々人が書いたブログでも読んでくれといったところだろうか。日本映画を牽引しながら、まとまった批評、解説書を持たずにいたことを考えると、作品や思想分析をおこなう意義は、そこに見出せるかもしれない。
 ただ全体としては、理論的枠組み整序といった分析にとどまっている印象もある。一連の議論を踏まえて見えてくる構造や、現代社会との交錯といった部分まで掘り下げられれば厚みが増したところであろうか。要するに、まとめれば、この本は端的にこの作者なりの監督へのオマージュに貫かれているのである。
 それにしても、最後にひとつ付け加えておくべきは、この表紙である。これは誰なのであろうか。この本で、著者は押井作品に現れる女性像について概括しているが、それに従うなら、アンナ・カリーナタイプの黒髪のおかっぱ頭が順当である。しかしここで採用されている表紙の女性は、まったく正反対の透けそうな感じのパステルカラーの女性の顔のアップが採用されている。一見すると、ファッション誌か美容本かと見まがうところだ。もしこの著者に会ったら、表紙の人物と意味について真っ先に尋ねてみたい。

※掲載誌:STUDIO VOICE