第三関門 自著要約・書評 評価・東浩紀氏コメント

※注※ 総合評価は、自著要約の評価と書評の評価の単純な合計ではありません。

斎藤ミツ

女性39歳
合否 :
評価 : 自著要約B+/書評D/総合C
◎プロフィール
東浩紀氏コメント 腐女子の歴史的俯瞰。主題と構成は明確。有益な情報にも溢れている。読者からの需要もあるだろう。しかしどうも華がない。学術論文のイメージが強い。出版のときには大きな飛躍が必要だ。文尾と足して二で割るといいかもしれないが、しかしそれも安易な発想だろう。書評も残念ながら書評になっていない。もしゼロアカで生き残りを目指すのならば、そろそろ腐女子論以外の引き出し、視点を見せてほしいところ。
タイトル:オーガニック・ロマンスの時代〜〈腐女子〉〈やおい・BL〉進化論〜

●はじめに

 〈腐女子〉。
 この言葉が、誕生したことの意味は大きい。
 では、〈腐女子〉とは何か? その定義は、未だに微妙なところで揺れている。現状で、いちばん広く総括的かつ一般的な定義は、「〈やおい・BL〉を愛好する女性」だろう。つまり〈腐女子〉を論じることは、〈やおい・BL〉を論じることと同じなのだ。〈やおい・BL〉の作品を論じられなければ、〈腐女子〉を語ることはできない。
 「女性による、女性のための、男性同士の恋愛物語」である〈やおい・BL〉。その始祖、森茉莉の『恋人たちの森』が発表された1961年。〈やおい〉という言葉が同人誌に登場したとされる79年。〈BL〉という名称が誕生した91年。これまで名も無き民であったその「読者・作者」が、初めて名付けられた、独自の名を得たのである。
 〈やおい・BL〉を愛好するということは、作品を「読む」だけではなく、商業誌・同人誌を問わず「描く=書く」ことも含まれる。つまり〈腐女子〉とは、「語る女」であり、「読む女」でもある。
 日本の文学史上、名高い「語る女」のひとりは、なんといっても『源氏物語』の紫式部だろう。『源氏物語』は、様々な解釈が可能な古典的テクストである。光源氏の栄耀栄華の物語とも、光源氏をめぐる女性たちの物語とも解釈できる。
 平安時代は、身分社会であった。身分の高い者=貴族たちは、富や権力を占有する、社会の特権階級であるというばかりではない。彼らは、高貴な者とされる。身分が高い、高貴であるということは、実際的な容姿や知能にかかわらず、すべての者は美しく徳高いのだということを意味する。『源氏物語』や『枕草子』で、皇后・彰子や中宮・定子が、一様に美しく教養高く描かれるのは、彼女たちの実際的なものが優れているか否かという以前に、頂点を極める貴族の血統の者であるからなのだ。それは同時に、いかに個人の容姿や能力が優れていても、身分が低ければ賤しく下品な者とされることを意味する。それが身分社会の一面なのだ。
 それを踏まえると、『源氏物語』の革新的な実験性がみえてくる。例えば、主要ヒロインのひとり、「紫の上」。彼女は実の父は皇族でありながら、正式に認知されていない。血筋的にも微妙なうえ、父親の後見もない紫の上は、身分社会における優位性は非常に弱く、源氏の正妻には終生なれなかった。その紫の上が、いかに源氏自ら教育をほどこしたとはいえ、作品においてトップクラスに容姿端麗の教養高い貴婦人として描かれていることは、かなりイレギュラーなことになる。そして身分の低い女性が、身分社会に食い込む最も有効な手段は、貴族の子供の実母となること。しかし紫の上は、源氏の子供を産んでいない。
 高貴な身分もなく、実父の政治的経済的バックアップもなく、さらに子も成せず母としての確固たる地位も得られない女性が、愛する男性の、その愛情ひとつだけで幸せになれるのか? 『源氏物語』は、ひとりの女性が仕掛けた、女性の生き方を問う小説なのである。それは身分社会に対して、非常に挑発的であり、同時にフェミニズム的作品ともなる。
 それが、『更級日記』にもあるように、先の時代の貴族社会の世相を反映させた、胸ときめかすラブ・ロマンスとなり、当時の宮廷女性たちに、ゴシップ的にも読まれていた。女性の生き方を問うフェミニズム的要素が巧妙に織り込まれた物語が、エロティシズムを伴うラブ・ロマンスという、娯楽作品として描かれる、それも女性の手によって、女性読者のために……。
 その形態と物語要素は、〈やおい・BL〉作品のそれと、性質的に同様のものがあるといっても過言ではない。紫式部が現代に生きていたら……、もしかしたら男権社会を手玉にとり、ホモソーシャルを揶揄するかのような〈やおい・BL〉的作品を書いたかもしれない。『更級日記』の菅原孝標の娘が現代に生きていたら、〈やおい・BL〉の熱烈な愛読者として、同人誌を書き、コミケに行く〈腐女子〉になっている確率はかなり高いとみる。何の関連性も無い物語のようでありながら、『源氏物語』と〈やおい・BL〉には、同じ水脈が流れている。平安時代の紫式部の「語る女」の血脈は、現代にも、脈々と受け継がれているのだ。実に千年の時を隔てて。
 「語る女」の一派に、そしてその作品に、はじめて独自の、〈腐女子〉と〈やおい・BL〉という名が付けられた。今、この時代に、名付けが行われたことは、何を意味しているのだろう? その必要性は、どこにあるのだろうか?
 それは、「語る女・読む女」が、そしてその作品が、社会において、語られるべき時を迎えた。もしくはようやく社会が、それを受け入れることのできる状況に至ったというべきなのではないだろうか。
 〈やおい・BL〉の「読者」「作者」は、そして批評家や研究者は、ようやく自らを、作品を、語るべき時を迎えたのかもしれない。だから私は今こそ、批評家として研究者として、内から、外から、語ろうと思う。長い歴史を経てきた、彼女たちが、一体何者で、何を生み出したのかを。

●〈やおい・BL〉の、今、昔

 『オタクはすでに死んでいる』。「オタキング」と呼ばれ、オタク学のオピニオンリーダー的存在のひとりである岡田斗司夫は、この著書の中で「昭和とオタクの死」を宣言した。岡田自身が体現し、認識している「オタク」と、現在の若い世代の「オタク」。名称は同じでも、これらの間には、すでに種族的な差異が生じているという。ゆえに自らが意味づけした「オタク」は、「昭和」という時代と共に消え去ったのだと。
 岡田の主張に賛否はあるだろう。しかし我々は、「オタク」という言葉が、あまりに一般化したために、ついすべてが分かったような気になってはいないだろうか。時代は、社会の通念や制度は、男女観は、めまぐるしく変化している。たとえ同じ名を冠していようとも、時代の申し子ともいえる「オタク」は、
その世代世代によって、当然、変化しているとみるべきだろう。
 〈やおい・BL〉も、同じだ。時代の、世代の、社会の変化と、密接に関連している。時代と共に、適応し、進化し、時として後退する。今の〈やおい・BL〉を知るには、過去の経緯の結果としてみなければならず、過去のそれは、今との相対化によって浮かび上がるものなのだから。  
 〈やおい・BL〉の主な作品は、マンガと小説という形態を取っている。本論ではこのうち、〈やおい小説〉と〈BL小説〉を中心にみてゆくことにする。

●〈やおい・BL小説〉の変遷

 『コミュニケーション不全症候群』(1991年・筑摩書房)において中島梓が、非常に簡略化していうと、〈JUNE小説〉やその「読者・作者」を、ある種の精神的病の結果として論じたことに対して、若い研究者たちの間には、違和感を抱き、批判する向きがあった。我々は特に、〈JUNE小説〉がなくては生きてゆけないほどの依存はしておらず、男性に対して社会に対して、アイデンティティに支障を来すほどのコンプレックスを抱いているわけでもない。〈やおい・BL小説〉は特異で特別の存在ではあるが、あくまで娯楽のひとつなのであるから、と。
 これは、中島梓の指摘が間違っているわけでも、それに対する批判が的外れなわけでもない。これは、それぞれの批評の対象が、同じ名称を持ちながらも、その内実が時代の変化に伴い異なってしまっていることから生じた齟齬なのである。
 1990年代頃までの〈やおい小説〉や〈JUNE小説〉は、フェミニズムやジェンダー論によって分析することが、充分に可能だった。社会は女性の性欲に対して非常に抑圧的であり、男性同性愛そのものへの禁忌視も強力であった。その状況の中で、〈やおい小説〉や〈JUNE小説〉の「読者・作者」は、男女の権力構造を排除した恋愛関係を求め、自らの性欲を充足させるためのエロ・メディアを求めることは、隠蔽しようとする社会との摩擦を避けられず、アイデンティティやパーソナリティに深く関わる問題となりやすい。先の中島の論は、この時期の作品や「読者・作者」の一面を、的確についたものといえる。
 しかし今の時代の変化は、とても激しい。90年代後半から2000年代の〈やおい・BL小説〉になると、かつての批評論では対処できなくなってきている。ジェンダー的抑圧やジェンダー的対等性への希求という解釈が全く適用できなくなったわけではなく、誤りとなったわけでもない。90年代の「読者・作者」にとって、それらは既にテクストにおいて獲得され、攻略された対象となってしまっている。〈やおい・BL小説〉という方法論さえ踏襲すれば、それらの要素はクリアされたことになる。ゆえに、テクスト内の物語表現において、かつてのようにそれらの葛藤を描くことが求められなくなっているのだ。
 では、各時代における〈やおい・BL小説〉の様相を追ってみよう。

●ジェンダー・ロマンスの時代

 まず〈やおい・BL小説〉のはじまりから専門商業誌が出版されるまでの、1961年から1978年まで。 
 当時は女性にとって、いかなる時代であったのか。社会的にみると60年代の前半は、日本の経済面における高度成長期。後半は、アメリカなどの先進諸国で、「第二波フェミニズム」が大きなうねりをみせ、その活動は「女性解放運動」と呼ばれ、日本でも「ウーマン・リブ」として広がりをみせていた。
 そんな時代の初期、1961年に、森茉莉の『恋人たちの森』、翌年に『枯葉の寝床』が発表される。「ソドミアン小説」と評されたこの作品をもって〈やおい・BL小説〉の始まりとしても間違いではないだろう。このジャンルにおいて重要な作家にして批評家でもある栗本薫・中島梓なども、森茉莉の作品の影響を受けたことを語っている。
 1903年生まれの森茉莉は、自覚的、政治的なフェミニストというわけではない。しかしその性質には、現代女性と通底する部分がある。『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』(白夜書房、1993年)において栗原知代は、「永遠の少女」といわれた森茉莉と、現代の女性との共通性について語っている。真の令嬢であるゆえに森茉莉は、人に頭を下げることを知らなかった。さらに文豪森鴎外に溺愛され、誇り高く育った彼女は、同時代の多くの女性のように、すんなり良妻賢母に同化できなかったところにあるのではないかと。 
 そして1970年代、少女マンガ界に花の「24年組」が登場。76年には栗本薫以降の〈やおい・BL〉作家たちに多大なる影響を与えた竹宮惠子の『風と木の詩』が発表される。萩尾望都や木原敏江などの優れた女性作家たちが、ジェンダー的女性であることや、異性愛によっては描くことができないものがあり、それを少年同士の性愛で描く方法を編み出したのである。
それらを踏まえると、60年代は、一般女性たちが社会における自らの位置づけへの違和感と、その不当さに気付いた時代。70年代は、テクストにおけるジェンダー的違和の解消と、新しい関係性の表現として、「美少年」という存在、そして「男性同士の恋愛」「少年愛」という方法論が発見された時代なのである。

●ファンタジー・ロマンスの時代

第二期1978年〜90年  「女性のための男性同性愛物語」をメインモチーフにした初の商業雑誌「JUN」(三号で「JUNE」に名称変更)が創刊された1978年。同時に、後に〈やおい・BL〉のもうひとつの名称となる〈JUNE〉という名称が誕生した。「葛藤」と「創作」の時代のはじまりである。  そして79年、同人誌の世界において、〈やおい〉という名称が誕生する。同人誌即売会であるコミケットは、80年代より参加者数が急増し、規模が拡大してゆく。〈やおい・BL〉は、基本的に投稿誌である「JUNE」「小説JUNE」と、コミケの同人誌という、創作とその発表の場を得た。先の時代に発見された「少年愛」「男性同士の恋愛物語」の方法が、これらの場で、広がりを持った様々な「読者・作者」の手で、試され、磨かれ、練り上げられていくことになる。
 上野千鶴子は〈やおい・BL〉の男性同性愛を、「性という危険物を自分の身体から切り離して操作するための安全装置、少女にとって飛ぶための翼であった」と指摘する。まさに「翼」を手に入れた「作者」は、理想のカップルとその関係性を、現実から飛躍したところで描こうとした。
 この時期に「小説JUNE」に発表され、長きにわたり絶大な人気を誇った作品に、江森備『私説三国志シリーズ』と、吉原理恵子『間の楔』がある。『私説三国志シリーズ』は、権力者の性的慰み者にされていた美貌の青年・諸葛亮孔明と、彼をめぐる男たちの愛憎の物語。『間の楔』は、未来社会の支配層である完璧なエリートセクサロイドのイアソンと、スラム街出身のリキとの破滅へと向かう愛憎を描いた物語である。これらの物語世界やカップルのキャラクター設定や関係性は、現実からは飛躍しており、ファンタジーともいうべき作品となっている。
 70年代後半から90年代頃は、女子の大学進学率と就職率が上昇し、女性の社会進出が本格化してくる。そして86年には「男女雇用機会均等法」が施行。しかし当時はまだ法的拘束力が弱く、それまで歴然と女性差別をシステム化していた企業側の反発も強かった。この時代は、女性が、男性とのあらゆる面での対等性を求めたとき、社会的にも、経済的にも、精神的にも、高く厚い壁が立ちはだかるのだ、ということが現実的に見えてきた時期なのではないか。それゆえにこそ、〈やおい・BL〉の求める志向性の物語は、現実から飛躍したところでなければ描くことができなかったのだ。
 創刊から80年代までの「JUNE」「小説JUNE」は、男女では描くことできない物語を求めて、実験が繰り返された時代といえよう。先の時代に、女性のジェンダー的抑圧の解消と、対等な個と個の関係性を描くために、生み出された少年愛。しかし完全なる個と個の拮抗は、安易な馴れ合いを許さないゆえに、物語をよりシリアスに悲劇的なものにしてしまう傾向がある。今でいうところの「痛い」物語だ。常に「読者・作者」のパーソナリティの有り様を問うてくるような作品ばかりでは、正直、読むのはしんどい。究極的な「対」たり得るために、ジェンダー的対等性はほしいが、セクシュアリティつまりセックスシーンにおいて〈受〉と〈攻〉の性役割が、完全にリバーシブルとなることには抵抗がある。あくまで男性同士でなくてはならないが、リアリティのあるゲイ男性やゲイ関係を描きたいわけでも求めているわけでもない。
 このように、恋愛と性に関するあらゆる二律背反の要求が噴出し錯綜する。その葛藤のひとつの解決として、現実から飛び立った世界に物語を描く、たとえ時代が現代であっても、現実的要素を極力周辺した世界を描く、恋愛ファンタジーの方法を模索した時代なのである。

●エロティック・ロマンスの時代

第三期(激動期)1990〜2000年
 1990年代、〈やおい・BL〉が、本格的に商業マーケットに進出。そして出版上ジャンルの名称の必要性が生じ、91年に〈BL〉という名称が誕生する。
 各出版社のノベルス創刊ラッシュが終わる96年は、試行錯誤を繰り返していた方法論が、ひとつの完成にいたる時期でもある。現在〈BL小説〉といわれる作品たちの基本的なパターンがほぼ出揃う。〈受〉と〈攻〉が互いに究極的な対となる「オンリーワンの法則」、必ず〈攻〉の方の身長が高い「身長の法則」、〈受〉と〈攻〉の性役割の固定化、アナルセックスを到達点とするセックス、ハッピーエンドの結末などがそれである。それは同時に、女性の性的欲望を満たすエロティシズム表現の新しい方法も見いだされた。
 これらは、商業マーケットにおける商品化にともない、強固にパターン化されてゆく。商業マーケット進出以前の、〈やおい小説〉や〈JUNE小説〉は、娯楽でありながらも、同時に自己啓発的、既成の男女関係では描けない新規の性と恋愛を描こうとする実験的要素が多分に強くあった。これが〈BL小説〉という名称を得てからは、ジェンダーの娯楽化に邁進するテクストへ、そしてそれまでの飢えを満たすかのようにセックスシーンをふんだんに描いた過激なエロティック・ロマンスへと、如実に変容してゆく。

 

●禁忌なき性の時代

 2000年以降、〈やおい・BL小説〉は、いかなる時代を迎えているのだろうか?
 かつて〈やおい・BL〉を読み描くことは、同好の士以外には知られてはならない秘密であった。女性がエロ本を読みたい、描きたいと求めることは、あってはならないはしたないこと、禁忌であったのだ。
 エロティシズムは、禁忌を侵犯することによって生まれる。女性にとってエロ本を読むこと、〈やおい・BL小説〉を読み描くことは、行為それ自体が禁忌の侵犯となる。もし女性の性欲が完全容認され、エロ本を読むことも描くことも禁忌でなくなるとすると……。読み描くことから得ていたエロティシズムが、失われてしまうのである。男性のおたくに比して、〈腐女子〉が自らや〈BL〉を語らない理由のひとつはここにある。それは、〈BL〉が社会的に認知され、禁忌ではなくなることで、読み描くことの行為そのものからのエロティシズムが失われることを防ごうとする、免疫反応のごときものなのだ。
 禁忌の侵犯は、エロティシズムを生み出し、物語を動かすダイナミズムとなる。しかし200年代の〈やおい・BL小説〉は、その禁忌の多くを失いつつある。
 女性をめぐる社会状況や性への認識の変化は著しい。抑圧や差別が、まったく無くなったわけではない。しかし男性同性愛は既に精神的疾病ではなく、その存在は容認されつつある。さらに明らかに女性の性欲を隠蔽しようとする抑圧は、弱まってきている。今や少女マンガでも、過激な性表現や設定は珍しくなく、数で優る女生徒に、レイプされそうになる男子生徒さえ描かれるようになっているくらいだ。それは現実が〈やおい・BL〉に追いついてきた、と言い換えることさえできるだろう。今や、Tあらゆる禁忌が失われた時代Uなのである。〈やおい小説〉は、「禁忌なき性」を描くという難問に直面しているのである。
 そこで〈やおい・BL小説〉は、物語設定によって、自ら禁忌を作り出すという方法をとりだした。近年、「アラブもの」「遊郭もの」「花嫁もの」などが流行ジャンルとなった要因はそこにある。〈攻〉がアラブの王族であるゆえの身分差、一夫多妻を許すイスラム教、巨額のオイルマネーを持つゆえの圧倒的経済格差など……。それらは物語に、多くの禁忌をもたらしてくれる。これらの禁忌は、侵犯によって、同時に悲劇性を伴わないように、純愛とハッピーエンドロマンスを決して犯さぬ程度に、あらかじめ吟味され選別されている。要するに社会問題化や悲劇性といった余計な不純物を含まない、安心・安全な有機栽培的な禁忌なのである。

●オーガニック・ロマンスの時代

 では、禁忌なき性の時代に、〈やおい・BL小説〉は、どのような志向性のロマンスを描いているのだろうか。それは、現実とより有機的、実質的なつながりをもったロマンスなのではないか。
 その志向性は、ファンタジー・ロマンスの時代の1992年、「小説JUNE」に、掲載された秋月こお『富士見二丁目交響楽団シリーズ』の第一話に芽生えていたのである。
 主人公である〈受〉の「守村悠季」は23歳。音大でヴァイオリンを学ぶが、卒業後、プロ楽団員の採用試験に臨むも、腹痛でリタイア。ソリストになる才能は無いと自ら見切りを付けるが、ヴァイオリンからは離れられず、臨時採用の高校の音楽教師で何とか生計を立て、地元の音楽好きだが腕はいまいちのアマチュア市民楽団のコンサートマスターをしている。自らの自尊心を守るために、険しい音楽家への道から敵前逃亡をしたが、未練は断ち切れずにいるという、実に中途半端な自我意識の人物に描かれている。この「守村」は、実直で不器用で臆病で、いかにも実際にいそうな性格付けがされているのだ。それは、自分の女性としてのアイデンティティの有り様にセンシティブな傾向のある〈やおい小説〉〈JUNE小説〉の「読者」がシンパシィを抱きやすいキャラクターだったのである。さらに物語の主要舞台となる通称フジミという弱小市民オーケストラとその団員たちの設定にも市井のリアリティがある。
 現実から飛躍したところ、現実を巧妙に周辺化させて理想のロマンスを描いていたテクストに、現実との有機的_がりをもたらす方法を示して見せた。その方法の成功は、現在に至るまで刊行が続き、常にトップクラスの人気を誇る現状が物語っているだろう。

●おわりに

 〈やおい・BL小説〉は、現実から飛躍したロマンスから、現実と有機的に_がりをもったロマンス─オーガニック・ロマンスへと変容していったのである。
 「オーガニック・ロマンス」という名称には、現実との有機的な_がりという意味と、科学的有害物質を使用しない安心安全な有機栽培のものというニュアンスも含まれる。
 ジェンダーの娯楽化を脅かすがゆえに、必死に周辺化させていたあらゆる社会的・性的禁忌は失われつつある。今や禁忌でさえも、自ら設定しなくてはならなくなった。それも不純物を含まない安全なものを選別して。
 かつて「読者・作者」のアイデンティティを揺るがし、反社会的で、背徳的耽美的であった「危険な愛」は、「読者・作者」が、安心して心の武装を完全解除して読むことのできる、安全にして健全なエロティシズム・ロマンスになった。
 しかし、現実や、幸福、安心安全は、物語にとって、ダイナミズムとエロティシズムを失わせる危険な敵に他ならない。オーガニック・ロマンスを志向し始めた〈やおい・BL小説〉は、今後、この難敵といかにして対抗するのか。
 女性にとって、そして〈腐女子〉にとって、禁忌なき性の時代は、ひとつの勝利かもしれない。しかし〈やおい・BL小説〉という物語にとっては、現実との終わり無き戦いのはじまりなのかもしれない。

書評

◎腐女子論、やおい・BL論について

 〈やおい〉、〈BL〉は、限られた者たちだけが知っている、秘められた女性の楽しみであった。それが近年の男性のおたくブームに乗り、新たに誕生した〈腐女子〉という特異な名称のインパクトもあり、マスメディアの注目が高まりつつある。にもかかわらず、男性の「おたく」が、自称おたくの者たちが自らを語り、多くの批評家たちが、多くの批評や解釈を行っているのにくらべると、いかにも発言や批評や解釈が少ない、未開拓の地といえるだろう。
 〈やおい〉論、〈腐女子〉論の層の薄さ、当事者たちの語りの少なさを、斎藤は、女性がエロ本を読む行為それ辞退が禁忌の侵犯となり、それによって得られる独自のエロティシズムを失いたくないがゆえの免疫反応と指摘する。〈腐女子〉たちの批評を拒む態度の解釈としては興味深く、説得力のあるものと思われる。しかしその免疫反応を示しているのが、「読者・作者」だけではなく、研究者・批評者たちにも及んでいるとしたら、それはどうか。そこには女性のジェンダー論、セクシュアリティ論として、各当事者たちの個別性の様相の相対化が、いかに困難であるのかをも指摘すべきだろう。

◎やおい小説・BL小説の変遷について

 ある事象を前にしたとき、我々は、自分がまさにボリュームゾーンとして、当事者として接した時代が、その本質のすべてのように捉えがちだ。しかし、「おたく」にしろ〈腐女子〉にしろ、ある日突然に誕生したわけではない。自分がみたその世代以前の歴史もあれば、自分の次の世代の姿もある。自分が捉えたものは、あくまでその事象の一断面にすぎないのだ。
 〈やおい小説〉〈BL小説〉の、世代的内実の変容に着目した点は有意義であり、現在の〈腐女子〉〈やおい〉〈BL〉論には、必要不可欠なものといえる。各時代の女性の社会的状況の変化、そしてテクストの志向性の変化、批評の方法論の変化をただ指摘するだけではなく、関連づけている点は、有効だろう。
 しかしそこにはもうひとつ、実際的な「読者・作者」たちの認識の変化も必要なのではないか。それには「読者・作者」の個別性という難しさもあるが、彼女たちがどのように受容し、どのように楽しんでいたのか、その変容も見逃すことはできない要素だろう。
 さらに社会状況の変化との関連性については、さらに詳細にして繊細な作業を望む。特に〈やおい〉創成期の、第二波フェミニズムやウーマン・リブの時代。現在でこそ、少女マンガの「24年組」たちの作品は、ジェンダー的対等性の希求と評することができる。しかしその当時はまだ、「ジェンダー」という言説は一般化していなかったのではないか。ジェンダーという認識なしにそのテクストが生み出されたのであれば、自ずとその言説からはこぼれ落ちるもの、収まりきらないものがあるのではないだろうか。
 竹宮惠子の『風と木の詩』にしても、〈やおい〉〈BL〉論における解釈は、みな一様に上野千鶴子「ジェンダーレス・ワールドの〈愛〉の実験─少年愛マンガをめぐって」にならうものとなっているように感じるのは気のせいだろうか。この名作が世に登場してから30年あまりの時が経過している。そろそろこのテクストの読み直しが行われてもいい頃だ。この作品は、多様な批評の視線に、充分耐えうる興味深いテクストなのだから、〈やおい・BL〉文学史の変遷を追うのであれば、斎藤にとって、まずこの作品の位置づけと再解釈を試みことは決して無駄にはならないだろう。

 

◎やおい・JUNE・BLの差異

 斎藤は、〈やおい・BL小説〉の時代的な変容は追っているが、時代性とは違うところにあるであろう、〈やおい小説〉〈JUNE小説〉〈BL小説〉の差異については言及していない。時代的変容の詳細を捉えることももちろん重要であるが、その前に、それぞれの本来的な差異の分析を行ってからの方が、より時代性とその変化の関連性などが鮮やかに浮かび上がったものと思われる。
 それぞれのテクストの差異の存在と、その差異を前提とした批評の必要性については、「ユリイカ 特集BLスタディーズ」(青土社・2007年12月)において藤本由香里も指摘している。それまでにも、それらの名称の指し示すテクストの差異については、皆がその存在を認識し、指摘しつつも、厳密な定義は誰も試みてはいないようだ。過度の厳密な定義づけとカテゴライズは、対象の本質を見失う可能性は多分にある。
 しかし「女性による女性のための男性同性愛小説」という基本ラインは、共通していながら、三種のまったく異なる名称が冠され、そのどれもが時代とともに抹消されていないという事実。しかも「読者・作者」という当事者たちそれぞれが、これらを主観的に定義し、実際の作品を選別するという行為をしているとするなら……。そこには批評に値するものが隠されているとみるべきであり、定義づけも試みる価値はあるのではないだろうか。名前は、たとえその言説が偶然の産物であっても、それが周知のものと認知されたときには、大いなる意味が発生するのだから。

◎ロマンス・タイプ

 〈やおい・BL小説〉の変遷を、そのトピックと年代で区分するカテゴライズする見方はこれまでにもあった。しかしそれぞれの時代のテクストを、作品の志向性によるロマンススタジオのタイプによって切り取る変遷の見方は新しく、そしてテクストの内実が非常に分かりやすくなる。  斎藤がロマンス・タイプの分類の対象としているのは、あくまで商業マーケットの〈やおい・BL小説〉である。しかしその時代的変遷のトピックとして、同人誌や同人誌マーケットを取り上げているのであれば、その商業マーケットで流通するテクストへの影響を、もっと掘り下げることが必要ではないか。このジャンルの商業マーケットの「読者・作者」の多くは、同人誌マーケットの「読者・作者」と重なっているはずだ。
 〈やおい・BL小説〉の内容ジャンルの流行にしても、これまではむしろ現実社会とは無関係なものとする見方が大半であっただろう。しかし商業マーケットと同人誌マーケットが、密接につながっている〈やおい・BL小説〉にあっては、現実的事象と同じくらい、同人誌マーケットの動きとの関連にも着目すべきである。
 また「ロマンス」という言説の使い方にも、注意をそくしたい。「ロマンス」という言説には、やはりどこか甘さを多分に含んだニュアンスが感じられる。その「ロマンス」が、例えば、激烈にして過酷な愛と孤独を描いた『風と木の詩』を表するに、相応しい言説といえるだろうか。同じく24年組の木原敏江の『摩利と新吾』は、〈やおい・BL〉論によく引用されるマンガテクストである。これも摩利と新吾という二人の男性が、幼い頃から終生にわたり深い愛情を抱き合いながらも、お互いを対等な個として尊重し、拮抗するゆえに、肉体的には決して結ばれなかったという物語である。これはある意味、悲劇ではない。しかし「ロマンス」という甘さに相応しいかは疑問である。
 さらに「小説JUNE」に掲載された作品にしても、特にその初期のものは、非常に実験的な作品、痛切な自己表現的な作品などもあるのであれば、単純に「ロマンス」、もしくは男性同士の恋愛小説と分類することに、やや抵抗を感じなくもない。「ロマンス」という言説は、現在、書店の多くの棚を有し、華々しく売られている〈BL小説〉にこそぴったりくるのではないだろうか。

◎ファンタジックとオーガニック

 「やおいは、BLは、ファンタジーですから」。これはこのジャンルの各関係者からよく聞かれるフレーズである。これは〈BL小説〉の物語設定の過度なゴージャスさ、セックスの回数や、射精の回数などの過剰さ、物語の安易なパターン化などの現実から飛躍した要素を指している。同時に、エロ本を読むことへの、一種のエキスキューズにもなっているという。
 現在、ファンタジーという言説は、あまりに安易に、あちらこちらに使われてはいないだろうか。物語世界、物語設定、キャラクター設定や、それらとの総括的な現実との関係性を、ファンタジーの一言で片付けてしまっていいわけがない。確かにファンタジックな要素がみられる時代もあった。しかし時代は刻一刻と変化している。その変化と、いかにもファンタジーにみえるテクストの表層の奥にある、それとは実は相反する要素の存在。それを斎藤は鋭く暴いてみせている。
 〈BL小説〉のコードに不慣れな「読者」は、このテクストをいかにも特異な恋愛形態が描かれた、荒唐無稽なラブ・ロマンスと思うようだ。しかし実際に読んでみて、それが時として男性同士であることを忘れてしまうほど、あまりに普通の、むしろ古いタイプの基本的な恋愛小説であることに驚く。過激な性表現に眉を顰める男性もいるが、一般的な男性向けのエロ小説などにくらべると、セックスの回数は多くとも、あくまで愛し合う〈受〉と〈攻〉の一対一でしか行われない〈BL小説〉は、むしろ健全であるとさえいえる。その点、オーガニックなロマンスという指摘は的を射ているのだろう。

◎ジェンダーの呪縛

 斎藤の「オーガニック・ロマンスの時代」は、混沌とした〈やおい小説〉〈JUNE小説〉〈BL小説〉の時代的変遷を追うことで、
今の時代のテクストの様相と実体を明らかにしている。しかし、その分析は、未だジェンダー論の呪縛から自由ではない。ジェンダー的抑圧の解消という批評視点は、強力だ。しかしテクストは、「読者・作者」は、既に次ぎの時代に進んでいる。しかしその指摘と現象分析は行われているものの、ジェンダー論以外の、新しい批評の視点が明確にうちだされているわけではない。しかしこれは斎藤論にのみいえることではなく、昨今のすべての〈やおい・BL〉論にも当てはまることだ。斎藤の論も、ジェンダー論と、個別の作品そのものをテクスト論的に批評する方法との間で揺れ動き、引き裂かれている。
 ジェンダー論は、〈やおい・BL〉の様相を、実にきれいに切ってみせた。それはまだ〈やおい・BL小説〉の初期の段階では確かに有効であった。しかし現在、名称だけでも〈やおい小説〉〈JUNE小説〉〈BL小説〉と、三種が存在し、〈腐女子〉にしても、名称の定義は微妙に定まらず、その名付けを歓迎する者もいれば、抵抗を示す者、拒否する者もいる。時間的経過は、テクストの志向性や価値観、「読者・作者」の様相や認識などを多様化していった。
 あらゆる要素が多様化した現在、ジェンダー論のみ、作品論のみでは、テクストの混沌に対抗することはできない。テクストの一断面を切り取るだけでは不完全なのだ。斎藤の論には、もっと〈やおい・BL小説〉の抱える混沌を、混沌のまま引き受け、そして批評分析することが必要なのである。

掲載媒体 『群像』