第三関門 自著要約・書評 評価・東浩紀氏コメント

※注※ 総合評価は、自著要約の評価と書評の評価の単純な合計ではありません。

紅樹ゆうぅ

男性16歳
合否 : ×
評価 : 自著要約D/書評D/総合D
◎プロフィール
東浩紀氏コメント 評論家志望者としては完全に実力不足。したがって不合格。しかしそれは本人もわかっていただろう。そのうえで、提出課題内に小説を入れたり、誌面構成をたいへんに凝ったりした気概は、個人的にはきわめて高く評価したいと思う(ウェブではテキストしか公開されていないが実際の課題はPDFで提出されている)。挑戦者はまだ16歳。表現へのこれだけの欲望があれば、このひとは必ずいつか世に出てくるだろう。再会を楽しみにしている。
コミュニケ―ションにむかう空間
きみが「ぼくがここにいることを認めた」としても、結局、僕という存在は確定されなくて、ただ、そこにいる僕はネームカードをぶら下げているようなレベルでしか存在できない――ってことはよく分かってる、自分がよく分かってるつもりだった。きみはきみが存在するためだけに人を探し、ぼくはぼくが存在するために人を探していて、その人というのがぼくやきみにとっての意味のある人、つまり必要な人だって思ってる。けれど、その言葉――どこまでが意味を持っていてどこまでが意味を持たない無意味な言葉なの。きみはどうしてその言葉を使うの、どうしてその言葉で信じることが出来るの。きみがきみでいられることをぼくが証明できないとしたら、ぼくがぼくであることをきみは証明することが出来ないってことになる。ぼくはどこにいるの。悩んだ先は暗闇の中、ベッドにうずくまって、夜になると暗闇の中でパソコンを動かし、雑多に無意味に記録が流れていく掲示板というものを覗いていた。部屋の暗闇の中、パソコンに集まってくる蚊をさっき叩き潰した。身体の壊れたただの死骸になった。外は夏の虫がなにごともなく平常に声を鳴らしていた。締め切った部屋の中に夏の風は入って来ず、エアコンの余り冷たくない風が少しだけ吹いている。……、…………。夏恒例の風鈴が静かに鳴ったとか、そういうのはない、全く全然。ネット上に散らばった罵詈雑言の数々を目にした。頭の奥が疲れてきた。目薬を差して、有名人のブログとかウィキとかまわって、それからベットに倒れこむ。そんな生活はただ苦しいという一言の内に大雑把にしてしまえば収まった。このベッドの中で死んでしまえばいいと少しだけ考える。だが、その必然性或いは偶然性でもいいが、その可能性を自分の脳では処理することが出来なかった。すなわち、そのような状況を夢想することが出来なかったって訳だ。ぼくはここにいる理由なんてものはないことはもうここでこの時点で既に分かっている。だから、だから何。きっと、そんな風に云われてしまうんだろう。ぼくがここにいることに意味を見出せないのは変化を認識する能力というものがことごとく欠けているからなんだろう、そんなこと分かってるよ。たぶん、僕はこう云い返すだろう。しかし、その言葉に何の意味もないことは既にいろんな場所で分かった。僕がここにいなければならないと云う理屈は存在しないし、結局、ぼくが語っている言葉は無意味に捨てられてしまえばいいレベルの話で、だから、……だから、そう云えば、ぼくって何がしたいんだろう。死にたいんでしょと、どこからともなく聞こえたような気がした。でも、死ぬって面倒じゃん。とか云った。面倒じゃなかったら死ぬの。かもしれない。痛みがなければ、人がきみのことを忘れてしまえば、君は死ねるの。そうかもしれない。そっか。でも、それってきみという情報を隠してしまえば、きみはきみでなくなることは容易なんだから死ねるんでしょ。…………。その言葉にどう回答していいのか、正直今の僕には分かんなかった。だから取り敢えず、死ぬのをやめておいた。死ねることを上手く回答するのが面倒だったからだ。まぁ、いいや。そんな言葉でぼくの人生は続いている。何故か、よく分からないけど。

■不信から始まる

 今、わたしたちに信じられる物語はあるのだろうか?
 わたしたち日本人は昔、神話という物語を創ってきた。創られた物語は人々に正しく配達され、信じられた。わたしたちはその神話というものを確実なものだと思い込まされていた。
 けれど、それ故に私達の人生というものはすごく分かりやすく、簡潔な構造を得ていた。わたしたちはただ、その物語というものの教えに従って選択をしていればよかった。そうすれば、わたしたちは幸せになれるんだと、幸福を得ることが出来るんだと、そう思われていた。
 今思えば、そんな馬鹿なというような話ばかりだが、その時代はそれを信じていれば正しかった。戦争に勝てば裕福になれるとかそういう物語と同じように、信じていればいいと思われていた。
 大人は子供にこんなことを教える。「いい大学に入っていい企業に就職して、そしてわたしたちを楽にさせてね」と。今はこんな台詞、云っても効果がどこまであるのか分からないが、この時代なら全部が全部正しかった。実際、いい大学に入っていい企業に就職した人は高い給与があり、そしていい暮らしが出来た。そんな時代だった。だから、大人はそうなって欲しいと、そんな成功者の人と像を重ねた。
 その時代、「年功序列」と「終身雇用」が制度としてまだ残っていたことを、ここに書き加えておこう。
 そして、時代はバブルに突入した。
 バブルはそんな成功者を更なる高みへ連れて行ってくれた。成功者はまだ自分の知らない幸福があることを教えられてしまった。悪魔的なその好景気は人々に大量消費と消費の裕福感に満足させることに成功した。そして、その中でわたしたちは土地を買うことでもっと幸福(=大金持ち)になれると思ったのだった。土地の値段は「土地神話」に拠れば、上がることは確実だった。
 しかし、そうではなかった。好景気の抑制の政策で完全に「土地神話」は崩れ去ってしまい、土地の価格は下がり多くの人が損をした。借金を作った。
 そして、喪われた十年で苦しみが始まった。仕事がなくて路頭に迷う時代をわたしたちは生きてきた。
 そして、ぼくらの時代。
 すなわち、今、ぼくらはどんな風に生きればいいだろうか?
 仕事はあるし物語を押し付けられたりすることもない。そんな自由と幸福の中に生まれている。のに、迷っている。選択肢が多すぎるからという理由もあるだろうし、他にもいろいろあると思う。仕事が家で出来る時代でもあるし、いろんなことが出来るはずだ。そう、ぼくらにはその可能性がある。
 でも、クリエイティブな思考がないとその方向性を決める(=選択肢を選ぶ)ことは難しいのではないだろうか。これをしたい、あれをしたい、そういう何かを作っていく力(=夢)がなければ難しいのではないだろうか。

 日本は集団であることが強調されてきた。だから、個人で思想(※1)を持つというのは今になって求められたものだ。未だに、私たちは「いい大学に入っていい企業に就職する」のがいいと思われていることもある。それがいいことだとしても、リスクは大きいことを知覚し対処しなければならない時代だ。名ばかり中間管理職問題は大企業でこそ起こり、過労でもしかしたら死ぬかもしれない。そのリスクさえ考えた上で行動しなければならなくなりつつある。
 そして、年金制度の崩壊を未来のリスクとして、わたしたちは考えている。
 いずれ、年金制度は崩壊し老後を暮らせなくなる(=生きられないから自殺とか無理心中しなければならなくなる)というシナリオ(※2)を考えている。
 或るテレビ番組で、新卒者の初給与の使い道について訊いていた。その中で、貯金が圧倒的に多かった。理由の一つは年金制度の破綻のシナリオを見越してというものだった。
 そして、その初給与の使い道についてのインタビューの中には、現役世代のサラリーマンにこの結果を見せて意見を訊いたものがあった。答えの内容は、「貯金ばかりじゃなくもっと飲みに行ったりとかバンバン使おう、若いんだから」というものだった。
 しかし、それを云うなら本気で考えて欲しい。一ヵ月後リストラ。ありえない話じゃない。そうしたら、どう遣って生きていけばいい。流石にヤバい。プラス、深刻な病気にかかって……とかそんな場合どうにもならない。
 そのリスクを無視して生きろと云っている以外に、私はその回答を見ることが出来ない。確かに、終身雇用ならばそれでいいのだが、この答えは今の時代に即さない。それは出来ないことなのだ。リスクが高すぎる。
 先程からリスクという言葉をわたしは連発している。何故か。それが今の社会の自由さだからだ。リスクとはわたしたちにとっての自由の責任として見てもらえば、それは分かりやすいと思う。わたしたちは自由にさまざまな事象に干渉することが出来る。が、その干渉にかかわる責任(=リスク)が発生することを忘れてはならない。
 だからだ。
 だからこそ、そのリスクを知った上で行動できる選択肢を選択できるように、不要な選択肢を一度自分の中で考え、多すぎる選択肢を減らしていかなくてはならない。
 わたしたちは信じてはいけない時代に生きている。
 いろんな人の話を受けるのはいいが、あとでもう一度不信に思って考え直し、自分に合っているかどうか、情報の正確性は……などと考えていかなければならないほど、自由を与えられすぎて、わたしたちが自由を制御しきれなくなってしまっているのが現代ではないのだろうか。
 だからこそ、今の時代を簡単に自由でいい時代などとわたしたちは云えない。
 自由を求めるとは、「責任」の中にこそあるから。

■自由に行動すること、しかし……

 しかし、わたしたちにとって行動は自由に出来る範囲が広域化されている。
 先程のリスクに関する発言を除いてしまうと、それはもう圧倒的に。
 ネット環境が整えられ、デジタルの上では日本のどこに居ようとも同じように扱われ、困るのはオフ会(※3)が出来るかどうか考えるくらいなもので、結局、情報的には裕福であるわたしたちは、自由にコミュニケーションと物質的な消費をすることが出来る。
 もし、欲しいものが身体的な距離で届かなくても、情報的なものでは欲しいものが届く。そんな状況がある。
 例えば、ネット書店で本を買いたいと思った時はマウスを数クリックするだけで事足りてしまうし、服だって何だって、結局、インターネット上で何でも出来る時代にある。
 だからこそ、わたしたちは自然とどんな生き方でも選択できる、はずだ。
 わたしたちは自分の趣味などのための時間、つまり自分の固有の時間においては、すごく自由に束縛されることのない時代に生きている。だから、自由だ。それは間違いない。
 だから、技術の発達(情報的複製技術)と自由は、バーチャル空間上を充実させる。そして、同時にバーチャル空間を象徴させる土地(=秋葉原)を完全に結び付け、一種のテーマパークとして創造させている。
 しかし、その空間はどのような位置にあるのだろうか。秋葉原という単語には決まっておたくという単語を結びつけて語らねばなるまい。マスコミの影響でおたく=ヒッキー(ひここもりのこと)、という図式が完成してしまい、何だかおたくって分からないという状況にあるが、おたくはサブカルチャー(※4)を趣味とする人に当て嵌まる表現であり、決して、引き籠もり単体の言葉ではない(※5)。
 けれど、そもそも今の時代、どこかで引き籠もってない人がどれだけ少ないか。

 ここでこんな前提を導入しよう。
 「わたしたちは、コミュニケーションに生きている。」
 そんなことない、お金で生きているんだ、という意見が合ってもいいけれど、その言葉のどこまでが意味だろうか。確かに、途中まで合っている。快楽原則を押し進める時、わたしたちは物質的に豊かに、本能的に豊かになり、更に接続的(コミュニケーション的)に豊かでなくては成功できない。
 それに、快楽原則の行き過ぎを考えること/やめようと動くことは、コミュニケーションをなしに考えることは出来ない。
 そして、前の文脈で云ったとおり、わたしたちは多様な価値観が同一の場所に暮らす世界に生きている。だからこそ、わたしたちの言葉の話される環境が個人個人で異なっている。社会においては公共の言葉で当たり触りなく過ごしていることが出来るし、話の話題も公共のネタ(※6)を使えばいい。
 しかし、趣味の領域にはそのようなものはなく、社交辞令のような固苦しいものはない。
 多様な価値観の元、日本語をベースとする多くのサブ言語によって語られ話されコミュニケーションを成功させている。
 この光景を特殊なケースとは見れない。現状、このようなコミュニケーションのよりどころは多く、わたしたちは何も知らないうちに、そのようなコミュニケーションの中にいるのかもしれない。

■今のわたしたち

 今のわたしたちのコミュニケーションの拠りどころは、小さなメディアでしか作られない。
 わたしたちのコミュニケーションは、自分を空間上の社会(学校など)において、自分の社会を形成するためのコミュニケーションの社会を作り出すことで保たれる。その場所に、ケータイのプロフ(※7)・ブログ・ケータイ小説で保たれる。
 その空間は、図1のような社会を形成せず、もっと細かく細分化され、図2をもっと細かく書き込んだものになるだろう。図2を作った当初、これはクラス内に作られたコミュニケーションのグループなのだと考えて作った。それは正しいと思っている。しかし、この図は個人にも当て嵌まり、グループとしての利害・価値観と個人としての利害・価値観を同時に持ち、いずれ破綻する可能性を持つ繋がりだけをネタ的に快楽原則的に消費して、時間(或いは人生)を経過させる(成長していく)システムであると云っていい。しかし、括弧付きで今、成長という言葉を使っているがそれもどうだか。経過していくことがそもそも成長なのか。そもそも、成長して大人になるって何だ。もう、その辺はよくわからない。もぅ、大人という言葉は機能していないような気がする。
 大人とは、自立して責任を持ち社会で生きていける人間を指すのではないか。だとすれば、自立して責任を持ち社会で生きていけて、空いた時間を例えばプレイステーション2のゲームで消費する人間を皆子供だと云わないのか? じゃあ逆に、年齢的に子供でも勉強だけをしルーチンワーク的に生きている人間をどう呼ぶ。そもそも、そこに厳格に区別されることはない。
 学校という空間は小さな社会と云われたりする。その社会の構造事態が小さいものに、傍から見れば怪しいものにになってしまっている。学校裏サイトの発生と過激になる犯罪的書き込みの原因はそこにこそ見出せる。
 桜庭一樹の小説全体を覆う雰囲気は、そこにある。多くの桜庭作品に出てくる人間関係は、何だかきゃらくたーっぽくって、共感性と何だか分からないその雰囲気はそこにある。「赤×ピンク」なら特に。「鉄扉を抜けた瞬間、わたしは、わたしの物語がある薄暗い空間から外に出たように感じた」(166頁)――とある辺り、とても重要。この世界は小説だから物語と書いたのかもしれないが、それは本質を突いている。主人公三人の持つキャラクターであり物語の構成はこのような図(図3)になる。これは単純なキャラクター的なコミュニティの形成であり、どちらかと云うと「少女には向かない職業」のほうがその本質を深く描写している。これは図には表さない。表すのが難しいので作るのはやめたからだ。だが、文章でどう書いたらいいかも少し難しい気もする。友達が居てコミュニティを形成し、その中、主人公の葵の友達である颯太がある女性と付き合い、コミュニティが崩壊し始める中、颯太と一緒に遊んでいるところを見つけられ→いじめ、そして、コミュニティが崩壊――となる。これこそ、私達の触れている社会の空間だ。
 わたしたちの社会は動物化している。だからこそ、わたしたちのコミュニティ空間は各コミュニティ空間にある性質からネタを選び出し、それをそのコミュニティ固有の言語として作られなければならない。そのコミュニティを選択し、維持していく行為も難しい。固有の言語を使用し、そのコミュニティから追い出されないようにその利害関係を理解し、それに忠実に動く。そんなことを繰り返しおこなうのが、今のコミュニティを拡大させる要因である。ケータイネットワークはその小さなコミュニティの仕掛けを大きくし、更には利害関係を忠実に動きやすくしてしまった。結果、見えにくいいじめが始まる。これはコミニティを作る上で必ず起こるものだと見ていい。そんなことないと云うかもしれない。けれど、それは規模の問題であって、必ず根底にはそのような構造が見え隠れする。コミニティは快楽原則的に人を集め、その消費を繰り返していく所属空間を作るほかの意味はそんざいしない。

■なんのために

 では、そのようなコミュニケーションの場所が存在するとして続ける。
 快楽原則的に集まる人を一体どんな風に見たらいいのか。昔に戻ってみても、その行為がおかしいと表現される必然性はいまいち見えて来ない。たばこが輸入されたのも、ディスコが流行ったりしたのも、(中略)それらは快楽原則に則っているだけだ。にも拘らず、何故今更なのだろうか。その理由は、快楽原則以外の理由を見つけられない消費物質が増えてしまっただろう。
 わたしたちの生きるこの時代に、快楽を取らずして消費されているものが幾つあるのだろう。快楽が直接の原因ではなくて、批評家(コメンテーターとか)によって価値観の決定がされていたのに対し、これからは快楽のレベルをレビュー(※8)で返し快楽を得るカタチが構成されてしまっている。そのため、わたしたちは快楽を量り、それに従って消費されていくしかなくなっている。けれど、これは或る意味一番いいカタチなのかも知れない。何故なら、マスコミュニケーションにより発達した伝達の公的で広域な発展によって、わたしたちは広告主や番組構成スタッフ、事務所等に意図的な誤った情報を送らされている可能性を否定することは出来ない。NHKでさえ例外でなく、或る本に拠ればかなり多くの商品化(DVDなど)不能な番組の回が一部ある。ただ、この情報のどこまでが真実なのかは断定することは出来ないが、そのような可能性があることは事実だった。しかし、インターネット上は常に嘘があると思って見るという教育方法(情報及び技術の授業より)がなされている。本来は全てのメディアでそう云われるべきだが、テレビ・ラジオ・新聞においては真実だという認識は多い。たしかに、事件は実際にあったものだし、起こったことは事実だし、専門家も名前があって偉そうでちゃんとしたことを云っている。が、全部が真実だと思ってはいけない。一パーセント以下かもしれないが、どこかに嘘(ミスも含め)はある。あるある大辞典が専門家に聞いた映像が意図的な編集によって効果があたかもあるような番組構成がされたように。
 だからこそ、「ネット―マスコミ」が或る程度機能してくれれば或る程度真実を得られるようになるのかもしれない。わたしたちが支持した商品が口コミで広まり、人気商品になることもある。逆に、口コミ先行で商品になることもある。ニコニコ動画(動画作品)やケータイ小説の商品化はそこに始まっている。正確に云えば、口コミと感動の物質的保存に拠りだが。
 わたしたちは嘘を真実と教えられた時代よりも、或る意味で残酷なぐらい真実も嘘も知ることの出来る時代に生きている。だから、他の時代よりも恐ろしく怖く、自由で気ままで、無力感か充実感かどちらでもない状
態か……そんな時代を生きている。
 そして、カタチのないものをないものをより信じられない。  ケータイ小説のカタチはそこにある。

■身体的、感傷的、コミュニケーションの欠落に

 ケータイ小説は、社会的に問題ありで見せたくないと云われてしまうかもしれないほど、「罪」を書いていると、なぜケータイ小説は売れるのかで本田透さんは云っている。そして、その理由に「真実の愛」をもう一度求めようとする保守的価値観(物語を求めずにはいられない)に戻っていることを云っている。ポストモダンの社会に現れた新世紀エヴァンゲリオンはその中で、TV版で「現実に戻ること」を要求、劇場版で「ここ(=アニメ)にはいられない」とした。その頃は「現実を生きろ」というメッセージと物語の解体が続きすぎた。
 と、すればだ。
 もう、ケータイ小説のように物語を創ることを認めなくてはならないだろう。現に新劇場版としてエヴァンゲリオンが戻り、名前も変わった(※9)。今度はハッピーエンドで終わらせるらしいという噂があるのだが、これはケータイ小説を見てもその方向へ流れていくのは正しい状況だろう。新劇場版の一作目「序」のエンディングでは「願い一つだけ叶うなら、君の傍で眠らせて、どんな場所でも良いよ」となっている。更にエンディングのタイトルの「Beautiful World」というのもいかにも云いたいことありそうなタイトルだ。このタイトルどおりなら、快楽原則に従い君(たぶん、綾波/母の象徴)の傍に眠らせてで、どんな場所でも良いよはどんなにおかしくても快楽原則で認めて欲しいとかそんな意味に見えてくる。どこが、美しいのか? 疑問は多いが、多分、人間として正しい=美しいとでも云いたいのではと思った。確かに、そんなハッピーエンドは美しく見える。ただ、その美しさへ辿り着くのは難しい。まだ、アスカも出てこない段階なのでこの後の展開は予想不能だが、新劇場版を作る意味は絶対にある。
 あと、余談。ケータイ小説の作り方って、エヴァの作り方に似ているのでは? ケータイ小説はレイプ(=輪姦)の場面を挿入する一方、エヴァは内面に深くかかわるシーンを強調する形で目に悪いぐらいの演出(※10)が掛かったりする。それは読者にとって与える影響のベクトルは同じではないだろうか。

■追記

 ケータイ小説が売れる理由と評論界が評価しなかった理由は、確かに「小説」でなかったことにある。
 一番簡単な言い方をしてしまえば、ライトノベルよりも或る意味進化してしまい小説と認める方法が用意できなかったのではないかと感じる。ライトノベルを評価するのは、物語の秀逸性とか純文学と同じように社会性とか共感性とか掛け合いの面白さや文体、テンポの良さとか、そんなところだが、ケータイ小説はそんな評価でくくるのは難しい。ライトノベルは一応、純文学とかと同じように風景や背景を地の文で記述して世界観を作りこむ。しかし、ケータイ小説は、会話文により繋がりとゲームイベントを織り交ぜ、読者の感情を呼び起こすようなメディアである。だから、徹底して小説としては書いていいのかというような罪の描写の領域まで書き込め、そこで真実の愛という物語を読者とともに目指していく、一種のリプレイ小説のような雰囲気なのでは?(読んだことないけど)と思った。
 しかし、その感情の操作を図れるものを小説ならば、例えば、ケータイで撮った写真にキャプションをつけただけでも小説になってしまうという可能性も捨てきれない。そうなってもいいが、どこでラインを引けるのだろうか?

●まとめ

 わたしたちは、大きな物語を失いポストモダンの時代を生きており、そこでわたしたちが持つことの出来る価値観は人間としての本質、すなわち、本能でしかない。わたしたちはその価値観を本能の中、快楽原則に求めることで自分の価値観を形成することが出来ている。けれど、わたしたちは孤独であるとも感じている。もし、パソコンで同じ価値観もしくは近い価値観の人に出会うことが出来るなら、小さなコミュニティを形成することが出来る。学校も会社もそう。しかし、ネット空間は大きく、そちらの方が価値観の同じ人を見つけるのは容易くなっている。だからこそ、ネット上は現実(リアル)で失ってしまったコミュニケーションの穴を埋めるようになったのではないだろうか。ニコニコ動画の構造はまさにそうだ。オンラインゲームは、ただゲームを楽しみたいという人も居るだろうが、チャット機能やゲームイベントのクリアが一人では難しかったりバーチャルで結婚とか、まさにコミュニケーションを創造するために生まれたかのように作られている。ネトゲー廃人が社会問題化する背景は、リスク的なリアルのコミュニケーションがセクハラなど法律により人権を守ると称して意味を持たなくなったことと、深い友達を作ることが難しくなったことを挙げられるだろう。しかし、オンラインゲームは現実とは違って、リスク部分をネット的な範囲から外れず現実に入ってくる可能性はとても低い。だからこぞ、バーチャルを或る意味リアルとしてみることが出来る。或る声優はオンラインゲームをリアルとし、現在は出稼ぎをするためのものというのもそういう風に考えるのも誤った認識ではないだろう。だから、わたしたちはバーチャルを一種の想像上の現実を厳密に再現してしまうメディアだとしていいと思う。だからこそ、私達の今の現実は信じたくないものであって、その感情の方向は正しい。ところで、仕事をしなくてもお金が入ってきて最低限の生活を送れるならばどうするのか、という問題がある。この場合、最低限の生活を送れると仮定したところで、如何遣って時間を潰すかである。この話は老後の話にも用いられるべきだろうが、その話はしない。時間の潰し方といっても色々ある。お金を余り使わない方がこの問いにはふさわしい。渡辺浩弐の「吐田君に言わせるとこの世界は。」(パンドラVol.1 SIDE-B掲載)では、そんな状況でファミコンゲームをやっていたと思ったが、この生活はどうなのだろう。不健全と非難されるべきなのだろうか。しかし、生活は送れているし時間はしっかり潰せている。むしろ、こちらの方が正解なのではと思ってしまう。そもそも、仕事とは苦しいものとしての意味以外わたしたちには見出すことが出来なかった。サラリーマンとなって上司に怒られながら仕事をこなし、そして給与を貰う。コレが一般的だった。しかし、バブルのように大金を手にした人間はもっと儲けることにだけ使い、仕事的だった。お金が絶対だった。しかし、今は誰がお金は絶対なのだと云えるだろうか。お金があって、何が裕福なのか。確かに、物質的には豊かになる。しかし、物を得たことで裕福で満足だろうか。だからこそ、ネットという空間は、コミュニケーションのテキストを更に構造的に強化して作り出すことになったのではないだろうか。ただ、その中にも現実を見出すのは容易い。掲示板なんかでは争った後、板(※11)から消えてしまうたりと争いと云うカタチで現れたりする。その行為は徹底して、そんなコミュニケーションの空間で行われている。そう、わたしたちは小さなコミュニケーションを信じるしかない時代に大きなコミュニケーションは意味をなくしていて、小さなコミュニケーションの中でも利害というリスク的なものによって支えられていると云って間違いない。わたしたちは絶えずコミュニケーションとリスクを考えずには居られない時代に生きている。

書評
書店に行くと、他の単行本よりも目立っている銀色の箱がある。
 それが「講談社BOX」。去年、大河ノベルと称して12ヶ月連続刊行という偉業を達成。更にレーベルとしてファンクラブを持っている何だか不思議のが、講談社BOXというレーベルなんです。
 銀色の箱に本が収まっているという他のレーベルでは見たことがない、そんなデザインで手にとって見たくなります。
 その箱の中には、小説のみならずマンガ・批評など多岐にわたる本がこの講談社BOXから出されていて、西尾維新や竜騎士07などよく知られている作家たちが名を連ねます。
 そして、その箱の中に、新人の批評家が誕生し、今5月に「コミュニケーションにむかう空間」というタイトルでで刊行された。
 なんと、著者は16歳。一体、どんな批評をわたしたちに見せてくれるのだろうか。


 表題どおり、コミュニケーションにより変容を遂げた社会についての評論を展開している。
 その中で目を引く言葉は、「わたしたちのコミュニケーションは、自由と情報を伝達する技術により大幅にそのコミュニケーションの方向性やシステムが変わってしまった」とするところだ。その中で、ケータイ小説とニコニコ動画(投稿した動画にコメントが付けられる一連のシステム。コメントは動画内を基本的に右から左に流れる)を横断的に批評しようとしたり、挑戦的な部分が目立つ。
 著者は、『「ケータイ小説」だけを批評していることが、果たして意味のあることなのか』と本書の末尾で語っている。今、ケータイ小説が流行っていること、売れる理由をただ研究しても何の意味もなくなってしまうと書かれている。現在のケータイ小説市場は大きな盛り上がりを見せ、魔法のiらんど文庫の創刊を含めその規模は増える一方だ。それをどうやって見るべきなのか、本書はそれを「オンラインゲームの環境」と「ライトノベルの進化」から見出そうとする。
 オンラインゲームの環境は、わたしも幼少の頃そうだったように、『ゲームは遣ってクリアーすることだけが楽しみじゃなくて、そのクリアーする過程でみんなと話し合いながらどうやってクリアーするのか訊いたり話したりするところにある。ゲームに「通信」の機能が付いたことでその側面が拡大され、更にパソコン・ネットワーク環境が揃うことにより増大、電子マネーが普及することでもっと拡大される』とし、ゲームがコミュニケーションを拡大させる一つの道具と化しているとある。確かに、パーティゲームは場を盛り上げるためにあり、多い人数で協力してやることによりコミュニケーションをすることが出来るからそれと同じことなのかもしれない。
 そして「ライトノベルの進化」は、ライトノベルがキャラクター小説を押し進めていった結果、読者に心地の良い面白い作品が作られるようになったことは、キャラクターによって読者の感情を揺さぶる効果を高めることが出来たからこそ、ケータイ小説はあると云い、ケータイ小説が読者の感情を操作する、感情操作のシステムとしての文章であり、読者にむけた感情と自分の記憶とを繋ぎ合わせる機関だと云っています。
 その結果、ケータイ小説が「コミュニケーションを生み出す道具」と「読者にむけた感情と自分の記憶を繋ぎ合わせる機関としての役割を果たしているのだとしています。
 今まで、ケータイ小説はただの女の子の読み物として消費されてきたと見られています。確かに、その現状は間違いではありません。しかし、それがケータイを使う男子ではどうなるのか、その現状は提示されていません。だから、この本の中で使われているケータイ小説の内部で行われているコミュニケーションは、もっといろんな人の中で生み出される可能性があるのだと思います。


 そして、この評論本では更に、コミュニケーションが身体とどのように関わりを持ち、どのように接触し、わたしたちは身体とキャラクターをどのような立ち位置で見ようとしているのか、ライトノベル作品を用いて作品論を展開し、そのキャラクターたちがどのような現実意識の中にいるかを事細かく書かれ、分析をしています。
 今までライトノベルとは何か、深く語られてこなかった部分を、読者の視点でかかれたこの本は今までにない形で面白く、評論というと硬くて読みづらいというイメージを崩してくれるものになっています。


活字倶楽部

――注――

◆※1思想と書いたが、簡単に云えば生きかた。自分の生きかたをどうすればいいのか、現在の学校では総合学習という時間を設けており、職場体験なるものまで行われるところもある。実際にわたしも体験したけれど、大変だったとしか記憶に残らなかった。まぁ、大人になればこれくらい大変なのだろうなとか、そんなことを思っただけだ。現在の学校のいう生きかたについて子供に考えさせようという動きは、将来、「子供がどんな職業に就きたいか」だけを延々と考えさせている。生きかたって、突き詰めていけば逝きかただ。どうやって死ぬか。それを考えることでしかない。ただ、そんなことをいうと印象とかすごく悪くなるから学校でやれないかもしれないが。しかし、死まで考えてくると、今わたしたちが直面する問題は浮き彫りになる……かもしれない。正確には、死=存在の根拠/場所なのかもしれないが。あと、パンドラ連載中の「世界はロックで出来ている」(阿部真大/通称はセカロック)の#2の文章について考えてみるべきだということにこの時気付いた。ロストジェネレーション三部作はやりたいこと志向や純愛志向の強い大人に向けて書かれている、と書かれ、しかし、高校生たちに副作用をもたらした、と続いている。が、「副作用をもたらした」のは阿部さん個人の問題ですし、セカロックで弁明をしているのでよしとして、問題はその副作用が徹底して現代の生き方(生き延びかたの方が正確か?)に属していることじゃないかとか思った。後でたぶん触れると思う◆※2シナリオとはシュミレーションであり、(自分の)人生の一つの可能性としての物語のこと◆※3オフ会とは、インターネット上に集まるひとたちが何らかのきっかけ(呼びかけなど)によって現実で会うことを指す。オフ会のオフは、インターネットに接続していないことを表す「オフ」◆※4通称、サブカル。マンガ・アニメ。ゲームを中心とした文化。聖地として秋葉原がある。何故、秋葉原が聖地なのかということはファウストVol.5の「森川嘉一郎ロングインタビュー」あたりを参照すればいいのかもしれない。◆※5非常に定義しづらい言葉だということは確か。そもそも、どこにおたくであるかのラインが存在しないため、個別の価値観に拠ってしまう。また、マスコミの流すおたく像を基準として見られれば、マンガに少しでも知識が深いだけでもおたくとなってしまい、難しい言葉だ。そして、引き籠もり=おたくとイメージがあるが、そうではない。実際に活動的な人もおたくだったりするし、でも、確かに引き籠もり率は高いよなぁ(いろんな意味で)。でも、引き籠もりって見える引き籠もりの問題で、籠もってないけど活動的だけど断絶されてるって、或る意味引き籠もりだったりするはず……◆※6たぶん、時事ネタ◆※7プロフはネット上(特にケータイ)で本人が(嫌がらせなどの理由で他人の場合も)書き込み完成させる自己アピールのための文章。最初から多くの質問がサイトごと独自に決められているが、その中には個人情報と思われるものを書き込みをする項目が多く、学校的には対処に困っている◆※8評価・コメント。Amazon.co.jpの各商品ページに付いており、各自任意で書き込むようになっている◆※9入力が面倒なのでここには書かない◆※10最終話の前の前の回だと思う。アスカの心情描写。ただ、覚えてるのだけ書いたため他にもあるかもしれない◆※11スレッド。話題や目的単位で作られる掲示板の単位◆ 図1


 幻聴とは、ありもしない音がするはずもないのに聞こえてしまう音で、だいたいそんなもの聞こえるはずないじゃんとかそんなこと云ってたような気がする。罰でも当たったかとか、そんな創造をする。ここはマンション、で、隣の部屋、しかも誰も居ないはずの部屋から妙な音がする。ちょっと五月蝿い。どたばたと歩いたりがんがん床か壁を叩いているような音が聞こえたり引き戸を開くすぅと云う音とか何か色々聞こえる。それも時間を問わず。真夜中とかもずーっと。たまに聞こえなくなったか、とか思ったりするとまた聞こえ出す。そんなことが続いてる。たぶん、一週間ぐらい……だと思う。その間、五月蝿いと云っている人も文句を云いに隣に来たり、なんかもない。何故だ。そう思って、隣の隣に住んでいる人に最近騒音で五月蝿かったりとかってありますって訊いてみると、あんたが五月蝿くでもしてるのか知らないけどと返ってきて、あ、きっと僕の幻聴だとか思った。思ったけど、何か妙に頭の中がボーっとする。何かそんな感じで頭の中が破損した僕の行動は、最終兵器を使ってその部屋に入り込んでその音の正体を暴こうとか考えてた。真夜中の人のいなそうな時間にピッキングスタート。ネットで手に入れた一万円以内で買ったピッキングキットを全く、安眠妨害で殴りつけてやるとか、滅茶苦茶笑いながら手を動かしていた。物凄く危ない。いっそ死ねってぐらい。まぁピッキングが始めてやったから手間取るかと思ったら、案外簡単に出来た。で、ドアを開けると何か目にも止まらぬ速さで大変なことになった。この世界はマテゴかよ。どうせなら、断章の方にしろよと思ったけどそんなこと今更云っても遅いみたいだった。ありがとう助けてくれて云いながら、ゆっくりしたの方を覗くと全く全然足が地面に着いていなかったから、憑かれたか……と無茶苦茶嫌な気分に襲われた。
「おっじゃましまーす♪」
 と、真面目な文章しか読まない超文化人の人は怒るかもしれない文章にしか言葉しか云わない幽霊の夏未が、思いっきりはしゃいで僕の部屋へと上がった。入っていいとは云いたくなかった。云いたくなかったけど、金縛りとか何とか……うぅ無茶苦茶嫌だ、こんな生活。そんなこと思いながら部屋の鍵を鍵穴に差して回して部屋を開けると……現状に至る。ついでに、エロ本探しのイベント発生。見たことあるよ、どっかでこの光景。絶対どこかの小説パクってねぇ!?とか、そんなこと思うことしばし。流石にやっぱり、触れなかったらしい、何って物に、どこかの小説じゃないんだからそんな簡単にそんなイベントは立たないから、どんなにご都合主義でも。
「えー、やだー」
 やだとか云われても。
「えー」
 えーじゃなくてー。
「あ、っそ」
 とか云って、部屋の中を幽霊のように縦横無尽に浮いていた。いや、本当に幽霊だけど。時折、壁抜けとかいろいろやってくれるお蔭でもう絶対来るなという視線を送りまくってみたけれど物凄い無視、ガン無視。最悪。しかも、「壁抜け〜♪、どーん☆」とか云いながら……
「うわ、これは……」
 あっ…………。
「ねぇー」
 …………。
「これ、趣味ー」
 最悪。死んで欲しい。死んで償って欲しい。死んで地獄行って心を直せなくて魂消滅させられて、一生目の前に現れないで欲しい。
「ねーねーこのーき……」
 それ以上云うな。
「ねぇ、この」
 云うな。
「はい」
 そう云うと、部屋に隅まで覚束ない感じで浮いていって、のの字を床に書いていた。それぐらいの反省を二時間は最低でもしていて欲しかった。そんなこんなで僕の家には幽霊が住み着いた。すんごく邪魔だけど。


 嫌なことが始まってから三ヶ月、済んでしまったことは双方の努力により何とかなるんじゃないかと思っていた。が、変わらず。連日のレポートの提出で睡眠不足を通り越しているはずだ。そして、ストレスがピークに達していた。
 のに。
 邪魔してきやがった。それも眠気がピークに達する時間に限って。真面目に殺意が湧いてくる。やめろと云っても、何か慣れてしまったらしく全然止めなかった。殺意が募っていき、遂に僕はキレた。もう我慢が出来なかった。このやろぉとか思いながら机の引き出しからナイフを取り出し、勢いを込めて夏未に突き刺し、呪詛をたっぷり聞かせて引き抜いた。どうやら、死んでくれたらしい。描写したくないような悲惨な光景を生み出した僕はレポートを一時間ほどで書き上げた瞬間、気の緩みからか倒れるように寝てしまった。
 翌朝、鳴った目覚ましを止めると手の色がおかしいことに気付いた。あ、そうか。思えば、夏未を殺しちゃったんだっけ。幽霊だから殺人罪にはならないし、まいっか、と思いながらついてしまった血を洗う。が、取れなかった。幽霊の血なんだから見えるわけないじゃんとか思ってみたけど、そうじゃなくて見えるらしい。その血の跡が。特にヤバいのが、顔に残った血。どうにもならない。周りの人空の奇異なものを見る目が痛いけどがまんして、学校の中でも我慢して授業を受ける。凄く辛い。
 結局、次の日になってもその次の日になっても、その血の跡は取れなかった。けれど、一ヶ月ぐらいしたら自然と取れた。何で取れたのかは分からない。けれど、よかったと庵視することは出来た。
 それから、成績トップ5に入り続けたりなんかしていて、最終のテストでトップを取っちゃったり、或る意味波乱の人生を送っているような気がする。人を殺したのはあれ以来ない。もう、殺したいとは思わなかった。だから、人を避けて生きている。携帯電話は松原みたいに不携帯を続けている。尤も、家に居るからだと云われれば、そうだけど。
 そう云えば、僕が人を殺した日から一ヶ月ほど経って血の跡がなくなった日、朝日新聞社にトラックが突っ込んで炎上していた。知り合いの名前をニュースで見たような気もするけれど、気の所為かもしれなかった。テロという単語で埋め尽くされたそのニュースの全貌を知るのにワイドニュースだから十分二十分は軽く必要としそうだったので、テレビの電源をコンセントごと切った。