第三関門 自著要約・書評 評価・東浩紀氏コメント

※注※ 総合評価は、自著要約の評価と書評の評価の単純な合計ではありません。

クマおたく

男性42歳
合否 : ×
評価 : 自著要約C/書評D/総合D
◎プロフィール
東浩紀氏コメント 自著要約からは、佐藤優の人生はすごい、しりあがり寿の宙吊り戦略はすごい、ということしか伝わってこなかった。単なる感想文。書評も自著解説にしかなっていない。この挑戦者にも期待が大きかったのだが、実力を発揮してくれなかったようだ。
生存のための修辞学 錯綜するコンテクストにおける戦略
 錯綜するコンテクストの中で
 言うまでもないことだが、私たちは社会的な存在だ。
 社会と一言で言ってしまうことが多いが、この「社会」というものをミクロに観察してみると、色々なコンテクストに分解される。
 大雑把に言っても、「国家権力」「資本」「コミュニティ」の三つが存在し、それらコンテクストの結束点として、私たちが存在していることは明らかである。
 私たちは日常生活の中で、それぞれのコンテクストの中で、そのコンテクストに内包されつつ、そのコンテクストに対する求心的な力と、それぞれのコンテクストに対しての遠心的な力の危ういバランスの中で日々生活を続けている。
 私たち自身(筆者も含めてだが)、このバランスは明日も、明後日も、そして自分が死ぬまで続いていくという前提を半ば無意識のうちにたてている。「明日には自分が死んでしまうだろう」ということを断定的に考えている人は少ないわけだし、明日も自分は生きるだろう、明後日も生きているだろう、しかし五十年後は正直に言うと分からない。その程度の時間軸の中で人々は生きているはずだ。しかし、その時間軸がいかに薄弱なものであるかは、確率的な偶然によって人間の人生が一瞬のうちに吹き飛んでしまうということもまた事実であり、コンテクストは、それぞれのコンテクストに内在する固有の論理に従って運動し、コンテクストからすれば一人一人の個人の存在などは取るに足らないものであって、そこに暮らす個人などコンテクストの中でどうなろうと、もはやその者の肉親や知り合い以外にとっては、どうでもいい話になってしまうのだ。
 異なる流れをもったコンテクストの結束点として個人が存在しているということは、個人がよって立つ基盤じたいが、それぞれのコンテクスト固有の動きにおける、動的なバランスに依拠しており、疾走する自転車のように、自ら運動することをもってしか、その安定を享受できないわけで、その動的な性質を無視したところで、機能不全に陥ってしまうのは明らかだろう。
 しかしながら、そういった指摘はもはや新しいものではないし、リオタールが言うような「大きな物語」が崩壊してしまったことを今更ながらに指摘しても人々に対して何の救いにもならない。もはや、多様なコンテクストの中で、人々は自らの力で、(経済学的に言えば)不均衡動学的に逆説的な安定を求めていくしかないのだ。
 混沌としている現状を曼荼羅のようにきれいに図示できたとしても、それは事後的に事象を理解しただけであって、私たちが切り開くべき未来に対しての戦略や戦術を明確に提示できるものではない。
 筆者が本書において、具体的に提示したいのは、「大きな物語」の崩壊以降、多種多様なコンテクストの錯綜の中で、まったくもって身動きがとれなくなっている私たち現代人、つまり各コンテクストの狭間で動的にしか維持し得ないバランスの中、明日に向けて生き残るために取り得る戦略なのである。
 筆者をそれは私たち人間の「生存のための修辞学」と呼びたい。言葉は悪いが、この混沌とした社会を生きていくための「マニュアルのようなもの」を提示することができれば、筆者の望外の喜びとなるだろう。
 ここで述べる「戦略」は、あくまでも個人ひとりひとりが、それぞれのコンテクストの中で選択し得るものであって、極めて微視的(ミクロ)なものである。組織化された正規兵の戦略というものではなく、むしろコンクリートの廃墟に潜むゲリラ兵が選択するようなものになるだろう。ゲリラ兵は正規兵と異なり、装備も貧弱で兵站も十分とは言えない。
 マニュアルと言っても、戦闘の局面を細かく場合分けできるわけでもなく、状況を変えてしまうパラメーターの数は天文学的数字になるだろう。そこでは、あくまでも自らの自律的な判断、思考力が問われることは言うまでもない。ここで提示されるものは、ひとつのの指針、もしくはひとつのアイデア以外の何者でもない。本書で提示される戦略は、ヴィトゲンシュタインに倣って言うならば、「人は、はしごをのぼりつめたときには、それをいわば投げ捨てなくてはならない(論理哲学論考 山元一郎訳)」からだ。
 戦略は局面によって機動的に変更するものである。
 したがって、ここで提示される戦略も、今現在という歴史的過程の中の一瞬のスナップショットである。そこから先の海図については、読者諸兄ご自身の脳裏に浮かぶものを信じて頂くしかないであろう。
 具体的な戦略を探るという意味で、一つの象徴的なケースとして、佐藤優を取り上げていきたい。

 佐藤優という存在
 佐藤優という存在については他言を要すまい。彼の著書である「国家の罠」に記載されている略歴によれば、「一九六〇年生まれ(蛇足だが、筆者より五歳年長である)。一九八五年、同志社大学大学院神学研究科終了の後、外務省入省。九五年まで在英国日本大使館、ロシア連邦日本国大使館に勤務した後、九五年より外務本省国際情報局分析第一課に勤務。二〇〇二年五月に逮捕、現在起訴休職中(元主任分析官)。外交官として勤務するかたわらモスクワ国立大学哲学部客員講師(神学・宗教学)、東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)をつとめた」とのこと。
 この略歴を読んで人はどう思うのだろうか。
 一般的には、「ふうん、お役人が賄賂か何かで捕まったんだろ。よく有る話だ」という反応になるのだろうか。実際に氏の身に何が起こったのかは、「国家の罠」や「自壊する帝国」といった氏の著作を読んで頂く方が早いわけで、筆者がここで述べることは敢えてしない。
  鈴木宗男事件以降、佐藤優がとった一連の行動から、ある程度一般化された、国家権力に対する戦略を描き出すことができるのではないかということだ。
 一九六〇年代に世界的に吹き荒れた、学生による国家・社会に対する「異議申し立て」運動も遙か遠い記憶の彼方の出来事であり、特に今の日本では大規模なストライキやデモといった国民の示威的なアクションはほぼ皆無といっていい状況だ。
 六○年代から七○年代にかけて、国家・社会へ対する「異議申し立て」は徐々に沈静化し、細かい党派の差異をネタにした党派闘争に堕してしまい、凄惨な内ゲバを繰り返しながら徐々に終息していったわけだが、内ゲバという愚劣な行為の弊害は糾弾すべきものだが、それにしても日本国内における国民の示威的なアクションはないに等しい。ガソリンの値上げ、後期高齢者問題、社会保険庁問題等、政府の失策ぶりは目立つばかりだが、その失策に対して、国民が国家権力に向かって直接的に声を荒げるという図式はもはや皆無だ。
 そういう中で、佐藤優という存在は、自らが国家権力の尖兵となって、外交官として対露外交の最前線で働いていた。
 しかし、「二○○○年までの日露平和条約締結という目標のためにはどんな手段でも使っていいと考えた。もしそれが成功していれば、鈴木先生は英雄だったし、官邸入りし、あなた(佐藤優のこと 筆者補足)も恐らく鈴木さんと一緒に官邸に入っていただろう。しかし平和条約はできず、しかも、あなたたち(佐藤優、鈴木宗男、両氏こと 筆者補足)は政争に敗れた。だから捕まった(国家の罠 三四八頁)」ために、彼は今も法廷闘争中である。
 そして彼は、二○○五年に「国家の罠」を著した。
 権力の内側、もしくはその尖兵であった個人が、自らを陥れた権力に対して、出版というメディアを通してではあるが、自らの法廷闘争を開示するという形で、権力の存在基盤を問い始めたのだ。
 七○年代以降、国民の示威行動がなかった国において、現役官僚の中から権力というものに対して、公然とその執行過程を開示するという行動は、マスコミというある種の歪な回路を通ったものだとしても、十分に社会的インパクトのあることであり、今後の対国家権力という意味での戦略に一つの含意をもたらすであろう。

「人を殺す思想」という言説
 先に述べたように、「国家の罠」は二○○五年に著され、佐藤優自身が携わった対露外交の現場、またその結果として起こった鈴木宗男事件とその事件における特捜検事との取調室の様子などが、氏の優れた記憶力により、あますことなく再現されており、筆者のようなごく普通の市民が覗くことの出来ない外交の現場、または検察の取り調べなどを垣間見させてくれ、ノンフィクションであるにもかかわらず、よく出来たエンターテイメント小説を読んでいるときに近い、スリリングな疑似体験を与えてくれる。
 取調室の中、氏の担当である特捜部の西村検事とのやりとりで、こんな場面が出てくる。
「あなたは頭のいい人だ。必要なことだけを述べている。嘘はつかないというやり方だ。今の段階はそれでもいいでしょう。しかし、こっちは組織なんだよ、あなたは組織相手に勝てると思っているじゃないだろうか」
「勝てるとなんか思ってないよ。どうせ結論は決まっているんだ」
「そこまでわかっているんじゃないか。黄味は、だってこれは『国策捜査』なんだから」(国家の罠 二一八頁)

 佐藤優は自らの逮捕劇について西村検事から明確に「これは国策捜査なのだ」と何度も告げられる。
 国家権力が本気を出せば、法的にテクニカルなことなどどうとでもなる。そのことについては、氏も十二分に自覚的だし、いわば勝ち目のない国策捜査というゲームを戦っていかなければならないわけだ。勝てる見込みのないゲームという意味では、私たちが私たち自身の日常生活において感じている虚無感とよく似たものではないだろうか。
 権力の側にいる人間が、同じ立場の人間が追いつめる。これが国策捜査の実態だ。ではなぜ、権力は自らの代弁者を追いつめなければならないのだろうか。
 佐藤優はこう述べている。

 なぜ他の政治家ではなく鈴木宗男氏がターゲットにされたかだ。それが分かれば時代がどのように転換しつつあるかもわかる。私は独房で考えをまとめ、それを取り調べの際に西村氏にぶつけ、さらに独房に持ち帰って考え直すということを繰り返した。
 その結果、現在の日本では、内政におけるケインズ型公平分配路線からはハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調路線から、排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代のけじめ」をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないかという構図が見えてきた。(国家の罠 二九二頁〜二九三頁)

 森政権から小泉政権へ移行するにあたり、基本的な政策路線の変更がなされた。それは氏がここで言う「ケインズ型」から「ハイエク形」へ、そして「国際協調路線」から「排外主義」へという転換である。政権の移行にともなって、パラダイム・シフトをしなければいけなかったという権力自らの都合により、スケープ・ゴートが必要になった。そのスケープ・ゴートを作り上げる儀式が国策捜査だったということだ。
 そんな国策捜査はまさに冤罪ではないかと思われる方もいるだろう。しかし、取調室内ではこんなやりとりが交わされる。

「いや、そんなことはないよ。国策捜査は冤罪じゃない。これというターゲットを見つけだして、徹底的に揺さぶって、引っかけていくんだ。引っかけていくということは、ないところから作り上げることではない。何か隙があるんだ。そこに僕たちは釣り針をうまく引っかけて、引きずりあげていくんだ」
「ないところから作りあげていくというのに限りなく近いじゃないか」
「そうじゃないよ。冤罪なんか作らない。だいたい国策捜査の対象になる人は、その道の第一人者なんだ。ちょっとした運命の歯車が違ったんで塀の中に落ちただけで、歯車がきちんと噛み合っていれば、社会的成功者として賞賛されていたんだ、そういう人たちは、世間一般の基準からするとどこかで無理をしている。だから揺さぶれば必ず何かでてくる。そこに引っかけていくのが僕たちの仕事なんだ。だから掴まえれば、必ず事件を仕上げる自信はある」
「特捜に逮捕されれば、起訴、有罪もパッケージということか」
「そういうこと。それに万一無罪になっても、こっちは組織の面子をかけて上にあげる。十年裁判になる。最終的に無罪になっても、被告人が失うものが大きすぎる。国策捜査で捕まる人は頭がいいから、みんなそれを読みとって、呑み込んでしまうんだ」(国家の罠 二九〇頁)

 国家権力にとってみれば、テクニカルな部分はどうにでもなるわけで、スケープ・ゴートとして最も相応しい人物が対象とされ、一罰百戒の見せしめとなる。この場合、スケープ・ゴートとなるのは、私たちの中の誰であっても、権力を維持していくという観点で最も効果的でありさえすれば、国家権力にとっては誰を選ぶかなんて、どうでもいいことだ。
  もし、私たち一介の市民が、何らかの理由で国策捜査の対象者となってしまったら、どうしたらよいのか? 多分、私たちは何らかの形で罪を認めて(呑み込んで)しまうのだろう。特捜検事の西村氏が言うように「被告人にとって失うものが大きすぎる」からだ。
 もしターゲットとなってしまえば、これほど絶望的なゲームもないだろう。
 しかし、国家権力と一市民という関係に引き戻して言うならば、国策捜査に限らず、国家権力によって犯罪者として一掃されてしまうリスクがあるわけである。特にここ最近の判例では、犯罪に対する厳罰化の方向が打ち出されているようにも思う。
 国策捜査や冤罪など、国家権力によってスケープ・ゴートとなった人々は、
国家権力による庇護というコンテクストや、資本というコンテクスト、もしくはコミュニティの中での生存権をほぼ失ってしまう。場合によっては、これにマスコミなども加勢し、大衆からの理由なき有形無形の暴力などが振るわれるなど、生き地獄的な社会制裁が加えられるケースもある。生きていながら、事実上、「殺されて」しまうのだ。
 しかし、日本の社会構造を考えてみれば、死刑や戦争という特殊な場合を除いて、社会的存在である一個人を物理的に「消去」するということは、少なくとも現実味をもって想像することができないと、筆者自身も思っている。すなわち、国家権力と個人間での何らかの闘争については、個人の「死」という国家権力による究極の暴力は、今の日本においては、捨象されている。
 しかし、佐藤優は自らの著書「国家論」において次のように述べている。

 要するに、思想というのは究極的には生き死にの問題になる。人を殺す思想こそが、ある意味で本物の思想なのです。ソ連崩壊期の中で私はナショナリズムの本質を見たように思います。ナショナリズムのレベルが高いとか低いとかいうことではなくて、人を殺す思想であるがゆえに、これは本物だと思いました。……(中略)……ところが、それにもかかわらず、自分の命よりも大切ななんらかの価値観というものがでてきて、それを基準にして動く。そうすると人の命を奪うことにまったく抵抗がなくなるわけです。(国家論 十五頁〜十六頁)

 この後、彼は、「左翼思想がこれ以上煮詰まると、内ゲバの世界に入り込んでしまう(国家論 十六頁)」と述べており、思想的な煮詰まりから暴力へ向かうということを言いながら、「人を殺す思想であるがゆえに、これは本物」と断定するということは、従来の知識人にはなかった反応だと言えないだろうか。勿論一部のマルクス主義者を覗いてではあるが。
 ここで彼が言う「思想」とは、国家権力による政権運営の方針、もしくは時の政権の存立基盤であるパラダイムというものと読み替えが可能であることに大抵の読者諸兄は気付くことだろう。
 このような発言ができてしまうこと、これこそが佐藤優という存在の最大の強みになっている。この「人を殺す思想」について、ロシアで、そして(物理的な「消去」ではないにしても)日本の法廷で実際に見聞してきたのだという、私たちが知り得ないものを知っている、体験していることにより、佐藤優は圧倒的な優位性を持ち、その優位性ゆえに、大衆のレベルからも、知識人のレベルからも、そし国家権力からさえも、「外部」として存在するようになったと考えられる。
 この「外部性」こそが、佐藤優の言説をささえているわけで、その言説がメディアを流通することによって、「佐藤優」というブランド、もしくはキャラクターが生成されていく。
 この「人を殺す思想であるがゆえに、本物だ」という発言により、彼が担保していることは、「自分が経験したリアリティ」に対する、絶対的かつ揺るぎない確信である。これは彼がキリスト教徒ということと強く関係していると推察するが、それに関する考察は別の機会としたい。  彼のバックグラウンドの問題を別にしても、自分自身が経験したリアリティへの実在論的な確信からこういった発言は生まれてくるのだと思う。「私は思想が人を殺す現場をこの眼でしかと見てきたのだ」と、彼は言外に語っているのである。そして、その彼の経験したリアリティが、「佐藤優」という一つの強固なブランドを形成し、同時に「元外交官」という「キャラクター」として、出現することができるのだ。それはまさに知識人にとってみれば晴天の霹靂だったに違いない。

 私は私自身に「人間はまず内側から崩れる。決して自暴自棄になってはいけない。常に冷静さを失わないことだ。この独房が人生の終着駅ではない。最も重要なのは自分との闘いだ」と言い聞かせた。(国家の罠 二七頁)

 氏は牢獄の中でも自律的であろうとする。自らが定めた規範により、哲学書を読み込み、メモを綴り、取り調べを受ける。そのひとつひとつの過程が、圧倒的なリアリティを持つ。ノンフィクションが持つ事実の力だけではない。何か異様な迫力をもって、私たちの胸に迫ってくるのだ。  私的な体験をつきつめていくことによって、万人に対して「お?」と思わせるリアリティを担保することができると言うのは、ある意味で権力にとって一つの風穴をあけることにならないだろうか。
 それは、秘密にしておかなければならないことが暴露されたことによる衝撃とは違った形の衝撃を、国家権力に与えるはずだ。

「宙づり」により獲得した外部性
 逆に、フィクションを突き詰めることによって、ある種のリアリティ(=実在)へと向かわせるという戦略も可能だろう。
 今から十年ほど前の作品になってしまうが、しりあがり寿の「弥次喜多 in DEEP(以下「弥次喜多」)」はまさにその好例だ。佐藤優が、自らの体験とその体験に対する確信によって彼の言説のリアリティを担保しているのと正反対に、「弥次喜多」では、フィクションがフィクションでありながら、そこで守るべき最低限のプロトコルを無視していることによって、作品が読者に与えるリアリティを担保している。
 「弥次喜多」の物語自体は非常に単純である。ホモでジャンキーの弥次さんと喜多さんが、お伊勢さん参りをするのだが、その道中が、特段のストーリーもなくまるで投げ出されるように読者の前に提示される。
 一つ一つのエピソードは雑誌への連載をいうことを前提に執筆されているので、一話ごとの盛り上がりなどが必然として組み込まれており、その一話一話を数珠のように繋げることによって、大きな全体的な構成を形作るということになる。特に前半は、一回の連載で完結することを意識していたためか、一回から二回の連載分できっちりオチをつけていたのだが、後半になるにしたがい、オチはなくなり、「リアルとは何か?」という執拗な反復が繰り返され、物語はより抽象度を増していく。意図的なのかどうかは別にして、全体的な整合性と一話一話の整合性の間で、微妙な亀裂が発生している。この意図しない亀裂が、この作品に偶然にも深みを与えていることも言うまでもない。
 基本的には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を換骨奪胎した時代劇のようなフォーマットをとっているにもかかわらず、そこでは時代劇的を時代劇として成立させている数々のNHK的な時代考証的なリアリズムを軽快に無視し、コラージュのようにあらゆる要素が意図的にゴッタ煮のように詰め込まれている。
 フィクションだったとしても、私たちが想定する「現実のようなもの」と何らかの紐帯を持たざるを得ないはずなのに、そもそも、この作品では、最初からその紐帯がない。リアリティ(ここで言う「リアリティ」とは「自然主義的リアリズム」と言い換えてもいいかもしれないし、「マンガ・アニメ的リアリズム」と言い換えてもいいかもしれない)との紐帯が提示されない宙づりの状態のままで物語は進んでいき、結末に向かって進むにしたがい、「弥次喜多」という物語の中でさえ、「何がリアルなのか?」ということを執拗に問いかけられるようになる。
 マンガであろうと、小説であろうと、私たちが認識するうえで、最低限のリアリズム(=自然主義的リアリズム、もしくはマンガ・アニメ的リアリズム)が必要になる。これは作品を展開していく上での最低限のプロトコルだろう。
 しかし、「弥次喜多」では、その最低限のリアリズムを最初から放棄してしまっており、その放棄の具合はあまりにも大胆かつ唐突である。その突き抜けぶりは、私たちが想定しているフィクションという大枠をはるかに逸脱したものになった。それでいて、私たちに対してなにがしかのインパクトを確実に与えていく。
 フィクションという様式を突き詰めた結果として出てきたものは、フィクションをフィクションたらしめている基盤から離れ(=最低限のリアリズムを放棄し)、読者の前に剥き出しの、裸の「何か」を提示したという事象である。
 そこで提示されている「何か」は本質的に「何か」であって、その「何か」を解説しようとする言説をしなやかに拒絶する。
 「弥次喜多」で提示された「何か」をメタファーとして読み替えることは勿論十分に可能だ。「弥次喜多」で描かれていることを色々な事象に結びつけて読み解くことは、そもそも「弥次喜多」がよって立つ、全ての事象との紐帯を持たない「宙づり」された構造と抵触してしまうのだ。「弥次喜多」はすべての事象のメタファーであるという関係性を捏造出来る材料を提示しながらも、自らが「宙づり」であるというその構造ゆえに、メタファーとして何らかの事象に同定されることをやんわりと拒絶するのである。
「弥次喜多」には時間の経過もあるようでなく、時代考証などははなからなく、SFジュブナイルのような、誰もが馴染みのある学園生活が出てくるわけでもない。しかし、そのフォーマットから確実に何かの「実在」を感じさせることは明らかだ。言葉を換えれば、内在する「宙づり」構造が、同定されることによって安定するはずの存在基盤を破壊してしまっているために、逆説的なある種のリアリティを生んでいるということなのだ。マンガのフォーマットをとりながら、内在する「宙づり」構造によって、マンガというフォーマットの外部性を獲得してしまっているのだ。物語という構造をぎりぎりのところで保ちながら、物語の外部に存在しているのだ。これもまた、希有な例であろう。
 国家権力の内側にいながら、国家権力の都合により国家権力により遡及され、勝算のないゲームを「国家の罠」という書物の形で公表し、権力による暴力のリアリティ、つまり、「暴力の現場」を自ら知っているのだという特権的な立場を獲得した佐藤優。この特権的な立場は、何者にも同定されない、ある意味、すべての階層から「宙づり」(=外部)になっている立場と言うことが出来よう。まさにフィクションにおける「弥次喜多」と同じ位相的位置を獲得しているのだ。その特権的な立場ゆえ、あらゆる階層の人々に対して、リアリティのある言説を送り届けることによって、「権力」の在り方を示し続けるという戦略。
 佐藤優は、彼が体験した「リアル」をもって、あらゆるコンテクストから自由な外部性を獲得し、その外部性ゆえに自らの存在基盤を担保し、そして「弥次喜多」では、フィクションそれ自身をつきつめることによって、フィクションの外部に出ることに成功した。
 両者がとった戦略は、錯綜するコンテクスの中で、私たちがどのような戦略で生き残っていけばよいのかと言うことに対して、おぼろげではあるが、一つのソリューションを提示しているのではないか。

生存のための修辞学へ向けて……裏切りの勧め
 私たちが取り得る戦略は、錯綜するコンテクストの外部へ出ることである。
 コンテクストの外部を獲得するためには、先の述べた佐藤優や「弥次喜多」の戦略が非常に有効なのだと思う。ではどのようにして、外部へ出るのか。端的に言って、それには二つの方法が有るように思う。
 まずひとつは、「自分」というミクロな存在に持てる力の全てを注力し、そのミクロな特異性をコンテクストに流し込むという戦略。言葉を換えれば「人体実験」ということだ。通常、我々は錯綜するコンテクストの中で、そのコンテクストに奴隷のように使役されているということは明らかだ。そして、身近なつきあいの中でも、コンテクストの意図を事前に把握していないと、「KY」として差別されるという熾烈な現実がある。
 しかし、コンテクストを読めない(もしくは読まない、意図的に切断するということ)というポーズをとり続けることによって、コンテクストとの抗争をしたとしても、勝算はないと言ってよい。逆にコンテクストに従いながら、その従う過程、そして従った結果をまさに人体実験のプロセスと結果として、自ら開示していくのだ。ある意味、これは佐藤優の方法論である。そしてこの「人体実験」の果てに、圧倒的なリアリティを獲得し、そのリアリティゆえにコンテクストの外部へ出ることが可能になる。
 もうひとつの方法論としてあるのは、一つのコンテクストを突き詰めることによって、そのコンテクスト自体を換骨奪胎していくこと。言うまでもないが、フィクションにおいて「弥次喜多」がとった方法論だ。
 コンテクストをつきつめることによって、私たちは何らかの実在を獲得できるはずだ。それは経済的な成功であるかもしれないし、権力の頂点へ上り詰めることかもしれない。そして、そのコンテクストを突き詰め多その瞬間にそのコンテクストを「裏切る」のである。善し悪しは別にして、ライブドア創業者のホリエモンがやったことは、これに近い部分があるかもしれない。彼もまた国策捜査の対象であったということに他言を要しまい。彼の行為が犯罪なのかどうかということを捨象して考えた場合、当時のライブドアが資本市場の実験室であったことは明らかで、善し悪しを別にさえすれば、資本というものを突き詰めるということを結果として行っていたと言える。そのようにひとつのコンテクストを突き詰めていく過程で、コンテクストの外部性を獲得することができるだろう。
 そのどちらにおいても共通するのは、コンテクストを「裏切る」ということであり、コンテクストにアタッチしながら、ディタッチし続けるという困難な身振りであり、敗北を見据えながら絶望的な努力を続けるという行為の継続なのだ。
(以 上)

書評
「生存のための修辞学 錯綜するコンテクストの中で」
 本書は、「東浩紀のゼロアカ道場」の批評家養成プロジェクトによる第一弾である。
 なにせ一万部も出すというのだから、この出版不況のおり、いかにも景気のよい話であり、これからもこのプロジェクトが継続して、面白い書き手が出てくるのは大歓迎である。
 批評本でありながら、「マニュアルを意図している」と公言して憚らないのは作者の世代的なものが大きいのだろうか。筆者などからすると、こういう言い方を見ていると、浅田彰が「構造と力」を「チャート式参考書のように」書いたというくだりをすぐに思い出してしまう。
 ここ最近の議論では、「大きな物語」「象徴界」が弱体化したことによる、自己の存在基盤の危うさを指摘する声はとても多く、家族や地域コミュニティの活性化によって、自己を再強化する、もしくはナショナリズム的なものを復活させるといった両極端なものが多い。そんな中、「ゼロアカ」と言われるようなBlog論壇などでは、そのどちらでもないもっとおさまりのいいものはないのだろうかという議論が一方では喧しくなされている。
 本書では、そういった状況に対して「コンテクストの錯綜」という表現をしている。何か一つのコンテクストに従っていれば、すべては問題ないというような時代は明らかに終わり、国家、資本、コミュニティといったそれぞれのコンテクストが直接個人の存在へ介入し始めた。
 そのため、「個人はそれらのコンテクストの結束点として」存在しており、それが「現代的な意味での社会的存在」なのだと言う。そして、コンテクストは自ら固有の論理で動いており、一個人とは何らかの軋轢を起こす可能性がある。一個人はコンテクストと真っ向勝負したとしても、多分勝算はなく、物理的に消去はされないものの、コンテクストの中で実質的に殺されてしまうとしている。
 こういった把握は、特に目新しいものではない。学校における「いじめ」でもそうだし、後で述べるが、地検特捜部による「国策捜査」にしても、著者が最初に言い出したことではなく、誰もが暗黙のうちに了解していたことを明文化しただけに過ぎない。
 それはそうと、コンテクストと一個人の軋轢の具体例として、佐藤優を挙げている。
 「国策捜査」や「対露外交」を経験した佐藤優は、その経験と「思想は人を殺す」という暴力の現場に立ち会った者のみが語り得る言葉によって、真の「リアリティ」を確保し、そのリアリティゆえに、あらゆる階層に対しての「外部性」を獲得したと著者は分析している。
 確かに、一頃は「佐藤優ブーム」といってもよい様相を呈しており、今となってはやや沈静化しているが、依然として非常に不思議な存在である。どうして彼はここまで色々なところに連載をもっているのか。「SPA!」誌上では、人生相談までも担当しており、その八面六臂の活躍ぶりは、誰しもが認めているところだろう。
 とは言うものの、誰もが一抹の胡散臭さを彼に対しては思っているのではないだろうか。この「胡散臭さ」こそが、著者の言う「外部性」だと理解することができると思う。
 面と向かって反論できない存在。高度の知性があることは明らかだが、学問的な修練だけでは身に付かない何かを持っている存在。この「外部性」というものが、日本の論壇や公権力にいかに風穴を空ける存在に成り得るのかというところについて、著者は「注意深く見守りたい」としつつ、「現段階で一定の成果は出ている」と述べているが、それはまだ早計に過ぎるであろう。
 それに加えて、佐藤優が結果としてとった、鈴木宗男事件以降の戦略が、今の「錯綜するコンテクスト」の中で有効なのかどうかについては、正直なところ筆者には素直に賛同できかねる部分が多い。
 第一に、鈴木宗男事件後の一連の状況については、佐藤優という一個人の資質に依存することが多く、それを一般的な戦略として一介の個人が「人体実験」として採用することには無理があるのではないかと思えること。
 彼の並はずれた精神力などは、彼がクリスチャンであることからくる部分も多いと思われるし、やはりあの尋常ではない読書力、語学力を前提にした戦略というものは、少なくとも筆者には貫徹できそうにはない。できる方がいらっしゃったら、心から尊敬したい。
 第二に、彼の保有する「外部性」というものも、あくまでも「日本」という狭い領域内でしか通用しないものであり、世界へ目を向けてみれば、貧困、内戦、政治犯といった、彼よりも格段に重い「リアリティ」を背負っている人々がたくさんおり、佐藤優が抱える「リアリティ」も、我々一介の市民からすれば、到達不可能なものに見えはするが、その程度の「リアリティ」ではグローバル化するコンテクストの中では対抗できないのではないかということ。
 我々は既に市場というもので世界につながっているにもかかわらず、そもそも現政権にそういったグローバルな意識が乏しいから諸々のことが問題となるわけで、こういった対コンテクストの戦略マニュアルという体裁をとるのであれば、「グローバル」という視点は絶対に欠いてはいけないものだ。しかし、日本国内でそこそこ有効であったという戦略がグローバルに拡張していけるのかどうかはまったく別の議論になると思うのだ。
 確かに佐藤優という存在は、傑出した存在だとは思うが、彼の取り得た戦略を我々が、この社会をよく生きるために用いるという著者の論理展開にはいささか無理があろう。逆に言えば、「日本」というこの狭小な領域の中で、政治的、経済的に自立し、一市民としてそれらの暴力と対峙していこうとすれば、「消去法的」に我々の手に残された戦略なのだと開き直ることも可能かもしれない。百歩譲って、その点については、個人的には理解できなくはない。
 しかしながら、本質的に国家や社会、はては経済全体を活性化させていくための戦略としては、あまりにも弱いのではないだろうか。
 同時に、もう一つの戦略として、「弥次喜多 in DEEP」を例にとっている。この「弥次喜多」が、「フィクションとしての最低限のプロトコルを守らない、もしくは軽やかに無視することによって、あらゆるものから『宙づり』となり、メタフォリカルな関係性を拒み、解読不能な『何か』を剥き出しのまま読者に提示する」といったくだりにも、いまひとつ説得力がない。確かにしばらく前の作品とはいえ、「弥次喜多」が持っている異様な迫力は今なお燦然と輝きを放っているが、「弥次喜多」に描かれるものが「メタフォリカルな関係性を拒む」というようなものではなく、むしろ、あらゆるメタフォリカルな関係性をオープンに許容することによって、「どうとでも解釈できる」自由度を読者に与えているだけではないだろうか。また同時に、「読者との最低限のプロトコルを守らないこと」が「フィクションを突き詰める」ことになるのかというところも、いまいち腑に落ちない。
 とはいうものの、著者が言わんとしている「コンテクストに一度従いつつ、最後は裏切る」ということが我々に残された戦略であるというところは、論理的な展開からは納得し難いが、気分的には大いに賛同したい。
 ただし、コンテクストに従いながら、「裏切る」という行為は、その行為を行う当事者にとっては、定量化不可能なリスクになる。その戦略をとってしまったからといって、「外部性」だの「ブランド」だのを獲得できる前に、その動きと相反するコンテクストから潰されてしまうということは往々にして起こりえることだ。しかも、この戦略をとったとしても、リスクに見合っただけの果実があるのかどうかは、本書を最後まで読んでみてもまったく釈然としない。マニュアルを標榜する以上は、経済的にも政治的にももっと色々な部分を担保した形で提示して欲しいというのは、やや欲張りすぎか。
 それでも、新左翼運動の後、現実に対して具体的に働きかけるようなインパクトを持つ思想、言論といったものがなくなってしまった中で、「具体的に仕えるマニュアル」というやや自虐的な形で、言論から現実への何らかの突破口を見いだそうとする動きは、今の日本の閉塞状況を見ている限り、否定されるべきものでもないし、現代思想を弄びながら、結局は社会民主主義的な提言だけに終わってしまう傾向にありがちな、今の知識人の有り様に対して、風穴を空けるものであることは間違いないだろうし、ある種のアジ演説としては成功している部分も多い。
 結局のところ、我々は何のかんのいって、自民党の一党支配による戦後政治の残滓の中で、いまだにごちゃごちゃと暮らしているわけで、そのコンテクストを明確に「切断」するためには、自民党コンテクストをつきつめていくことによって、「ほら、君たちの戦略は失敗だったでしょ」と指摘をし、あるタイミングで明確に「裏切り」を行わなければならないし、それ以外にも我々の日常生活を隙間なく埋め尽くしている種種雑多なコンテクストに対して、ぎりぎりのところで裏切りを続けていくことによってしか、我々がこの地獄から逃れる術はないとも思うのだ。
 とはいうものの、このような言説が所謂「ゼロアカ」という、それこそ「コンテクスト」から出現したことは本当に興味深い。著者は、ゼロアカ年代よりも年長の四十二歳。年代的に言えば、団塊ジュニアよりも少し上、ちょうどバブル世代とでもいうところか。最初にも述べたが、思うに、浅田彰の影響が強かった世代だろう。バブル景気のド真ん中で、ブランド品を愛でるように現代思想を吸収した世代だと思われる。政治的にどうだこうだとアクションをとらなくても、日本経済は盤石で、自らの収入にも不自由しない……。そんな雰囲気の時代でダラダラ育った風情が濃厚に漂う世代だ。
 しかし、この世代は、「失われた十年」の最中、会社において増え続ける仕事量と増えない人員の中、意地と気合いと根性で仕事をこなし、日本の再生にひとかたならぬ貢献をしてきたのも事実だ。どの世代よりもノンポリであった、このバブル世代から、このような意識を持つ論客が出てきたということに少々驚きもする。
 この「失われた十年」の間に、自らの権益が減少する現実に直面し、否が応でも政治的、思想的なバックグラウンドを持っていく窮地に追い込まれていったのだろう。
 現在、「ゼロアカ」世代とでも呼んだらいいのだろうか、三十代の書き手が目立つ中で、「バブル世代」の書き手に精彩を欠いている今、この世代の生き証人として、こういう書き手が出てきたことは非常に興味深い。
 著者略歴を見ると、某一部上場企業の財務担当の副社長を経験しているとのことで、こういった最低限の論理操作に習熟し、かつ企業経営の現場をまさに「リアル」に体験している論客である以上、著者が書く企業経営論、もしくはITや資本主義そのものになどに関する評論を読みたいと切に希望するのは筆者だけだろうか。
 次回作に期待したい。
(SIGHT誌に掲載と仮定)