序
文章とイラストの関係の歴史をみた場合、古くまで遡るのならば、日本では奈良時代の『絵因果経』や、平安時代の『源氏物語』などの物語絵巻にまでたどり着くことができる。
しかし、いわゆる印刷技術の向上により複製が簡易になった時代における、文章とイラストの関係という点に限れば、当然のごとく、その時代は近代へと辿り着く。
そして、近代的な意味合いにおける文章とイラストの関係、正確には物語とイラストの関係と言うならば、それは新聞小説と挿絵の関係を一つの始点とみなすことができるのではないかと思われる。
一方、現代に目を向けた場合、物語とイラストの関係と言えば、顕著な例として示すことができるのは、ライトノベルと呼ばれる書籍群であろう。
始点としての新聞小説と、現代における一つの経過点としてのライトノベル。
では、この両者を同一直線の流れの上で見た場合、それらにおけるイラストの役割は、どのような変化をしたのか。
同時に、それによって、どのように受容、創作に変化が現れたのだろうか。
一
まず、ライトノベルを見てみると、それらは物語としての文章以外に、表紙や挿絵としてイラストが含まれていることが多い。
また、文章だけではなく、そのイラストも含めパッケージングされ、それをもって評価がなされることも多い。
つまり、物語にイラストという要素がたんに付加されているのではなく、それらの両者が合わさり一つの創作物として成立していると言うことができる。
ライトノベルとしてパッケージングされた作品におけるイラストの存在というのは、そう意味では文章と切り離すことのできるものではない。
一方、新聞小説における挿絵が、それと同じ役割であったかというと、必ずしもそうであったとは言いがたい。
新聞小説における挿絵の役割は、その作品が書籍化されたときには省かれてしまうことがほとんどであったことからも分かるが、あくまでその媒体における文章に添えるものという程度である。
つまり、ライトノベルの事例とは違い、その物語における挿絵の存在の必然性は決して高いものではないということができる。
そのように見れば、新聞小説における挿絵の役割と、ライトノベルにおけるイラストの役割というのは、まったく違う意味合いを帯びていることがわかる。
極端な話、新聞小説における挿絵の存在は、物語に対してあまり必然性があるものではないということになる。
また、新聞小説だけでなく、雑誌掲載の小説の場合も雑誌掲載時にあった挿絵の多くが、書籍化に伴い省かれてしまうことからも、新聞小説と、雑誌掲載の小説における挿絵の役割は近しいものであったと推測できよう。
そのように考えれば、ライトノベルという存在の登場は、物語とイラストの関係性を大きく変えたことになる。
だが、ライトノベルの登場がイラストと物語の関係性を変えたものであっても、それとイコールとして物語におけるイラストの存在の意味合いを変えた大きな要因だと簡単に捉えてしまってはならない。
ライトノベル登場以前にも例外的に、挿絵、正確にはイラストを必要とするジャンルがあったからだ。
それは、ミステリである。
そもそもミステリとイラストというのは親和性が高くもありつつ、それと同時に、ものによっては相性が悪くもあるという、非常にやっかいな関係性だと言える。
まず、親和性について見てみる。
イラストと言うと、登場人物の描写や、風景の描写などを思い浮かべてしまうが、ミステリにおいては、建物の平面図や現場の見取り図という形として、イラストが登場することが多い。
例えば、国内の作品に絞って言えば、一九二四年発表の甲賀三郎の「琥珀のパイプ」ではすでに現場の見取り図が登場している。
「新青年」の創刊が一九二〇年で、かつ、国産探偵小説が本格的に始動する江戸川乱歩の「二銭銅貨」の登場が、一九二三年であったことを考えれば、ミステリにおけるイラストの登場は、早いものであったと考えることができるだろう。
さらに言えば、見取り図ではないが、その乱歩の「二銭銅貨」も、暗号の解読の際に、解読表に該当する図が示されている。
また、比較的最近の作品の中では、蘇部健一の『動かぬ証拠』や『木乃伊男』のように謎の解決をそのままイラストで表現するという趣向のものまで存在する。
そのような意味において、ミステリとイラストの親和性は非常に高いものであると言うことができる。
しかし、それと同時に、ミステリの作品の中にはイラストとの相性が悪いものもある。
その例として挙げられるのは、叙述トリックを用いた作品であろう。
その作品をイラスト化、正確には正しいイメージ化を読者にさせてしまうと作品のトリックが成り立たないからだ。
叙述トリックが、行為としての読書を通しての誤認を利用したものであるために、イラストにより正確な情報を読者に与えてしまっては、そのトリックは成立しなくなってしまう。
そう言った意味では、物語とイラストとの相性が非常に悪いとも言えるが、そう言った例外を除くと、非常に親和性の高いものであると言える。
そのように考えれば、ライトノベルと呼ばれる作品群以前においても、イラストと親和性の高いジャンルは存在したことになる。
では、ミステリもイラストと親和性が高いからと言って、ミステリにおける、正確に言うならば、ミステリの謎解きにおいて必要不可欠な情報としてのイラストという関係と、ライトノベルにおけるそれらをまとめてパッケージングするという関係は、両者がイラストとの親和性という点において近似点が存在するものの、その関係性は若干の相違を示していると言える。
また、親和性に限っていうのならば、ライトノベル登場以降も、さきほどのような特殊な例を除いてミステリとイラストの関係が変わるものではないのは言うまでもない。
では、それらにおけるイラストとの関係性がどのように違うのか、ということになる。
ミステリにおけるイラストというのは、先にも述べたように謎解きに必要な不可欠な情報として存在し、作品のイメージを補完するものとしてあった。
一方、ライトノベルはどうであるかと言うと、作品のイメージという点に限れば、イメージの共有化のためにあったと考えることができよう。
文章を読んで、作品世界を構築するにあたり、あらかじめそのイメージを制作サイドから与えられ、それにより、イメージの構築、そして、読者間でのイメージの共有を簡単に行なうことを可能にし、その作品のイメージを一様的に定着させるという効果があると言える。
つまり、イラストの役割は作品のイメージの補完をするものというものから、作品のイメージを作り上げる要素として変化したということができるであろう。
これは「活字倶楽部」や、もう少し視野を広げれば「ファンロード」などのような雑誌を見れば分かることである。
イラストの親和性以外にも、ミステリとライトノベルの近似点としては、互いにある種のキャラクター小説であるという点にもあるのだが、先に挙げた雑誌の読者投稿のイラストは、ミステリ作品の場合、それぞれの読者によってイメージ化されたキャラクターが描かれ、同じキャラを描いたものであっても、その様相は違うものが多い。
しかし、ライトノベルなどのように、あらかじめ、イメージが共有化されている作品では、基本的に描かれるキャラの様相は同じであり、違うのは描き手によるタッチ等の違いでしかない。
つまり、大きな意味ではイラストを必要とする物語という点においては同じようなものとしてみなすことができるが、その果たす役割は別個のものとして捉えられることができる。
この理由としては、メディアミックスのしやすさ、現状で語るならば、メディアミックスを前提での作品作りと言ったほうが正確かもしれないが、そのようなメディア展開の方法など、様々なものが考えられるが、読書やメディア受容の体験に基づくものも、一つの理由として挙げられるのではないか。
小説だけでなく、漫画やアニメと言った視覚情報の多い作品を受容したことによる、視覚からのイメージ構築に慣れた読者の増加ということである。
これは、文章のみではイメージ化ができなくなった想像力の欠如した世代などという意味合いではない。
イメージの共有化を楽しめる世代という意味合いである。
「このライトノベルがすごい」の投票の際に送られる作品一覧リストなどを見ると、いまだに、かなりの数の作品が刊行されていることがわかるが、このようなライトノベルの旺盛というのは、読者の求めるものの変遷と、それに適応していったある種の結果とみることもできるであろう。
そして、それを受容し育ってきた世代の作り手の中に、その影響が多少なりとも作品に現れてきた者が出現し始めた。
二
これまで小説の創作というのは、極端なことを言えば、紙とペンがあれば創ることのできるものであり、比較的容易に行うことのできる表現・創作方法と言われてきた。
また、PCの普及により、それがより容易になったことは言うまでもない事実であり、さらにその発表形式も、従来の紙媒体だけではなく、Webサイト等によるインターネット経由でのWeb媒体も、その発表の場となった。
それゆえに、ちょうどPC、正確にはインターネットが普及した頃とフィットした世代の多くは、PCや、それに伴うソフトの使用にも適応し、それを使いこなすことができるようになった。
そして、多くのフリーソフトの登場もあり、小説以外の創作に対しても、より安価で行なうことができるようにもなっていった。
現代において、その状況が一番把握しやすい場は、ニコニコ動画であり、その中で例として挙げておくべきはMADムービーの存在であろう。
MADムービーの起源を辿っていけばテープを切り貼りをしていた時代まで遡れるようだが、PCが普及し多くのフリーソフトがある現在に至っては、そのような苦労をしなくとも、PC上で比較的容易にそれと同様のことを行なえる。
現在、ニコニコ動画に溢れるMADムービーのほとんどは、アニメのOPの映像はそのままに曲を入れ替えたものや、曲に合わせてつなぎ合わせた映像を組み合わせているものである。
元になるいくつかの素材を組み合わせ、一種のパロディとして表現しているということになる。
既存のものをベースとし、いわば、それをどう料理していくか、ここで必要とされている能力は、いわゆる演出や編集の能力である。
そう考えれば、これらの作品を簡単に創作と呼んでよいものかという疑問が出てくる。
現在においては、これらは正確な意味では創作ではないと考える。
創作と言うよりも、むしろ制作という言葉の方がニュアンスとして近い。
もちろん、これらの能力も創作であるという見方もあるだろう。
しかし、これは、ゼロからの創作ではなく、何かしら元となる要素が存在し、それを元として作り上げていくという行為である。
それでは、ゼロからの創作とは本当に存在するのか、という反論もあるであろうから、正確に表現すると、現在行なわれているのは、別の誰かが構築した世界観を元に制作するということであり、そういう意味において、創作ではない、言うならば制作であると述べたいわけである。
制作するための道具の進化と、それを発表する場の拡大。
しかもそれらをともに安価に行なうことができるようになったという状況。
これが、要因の一つとなり、現在のような状況が生み出されてきた。
もちろん、技術だけが進化したわけではなく、それを利用する側のそれに対する能力も向上としていると見ても良いだろう。
しかし、それと同時に、追いついていない能力もある。
それはストーリーを創りあげる能力である。
映像関係の人間から、最近の若い世代は、技術の進歩もありテクニックは素晴らしいが、根幹となるストーリーの能力が著しく低い者が多いという意見がある。
また、出版業界で特に同人関係に強い人間からは、イラストはプロレベルであるものの、実際に作品を読むと、映像関係同様、ストーリーがストーリーとして成立していないものが多いという意見もある。
このようなところにも、技術の進歩に伴う影響が現れているといえる。
悪い言い方をすれば、テクニック的なところに関しては、技術進歩に負う部分が多く、ある種、一様的に見せ掛けの部分のみは、前世代に比べ上達しているように思われる部分が多いということだ。
だが逆に、これを好意的にみるならば、先ほどまで述べていた、演出、編集能力の高い者たちの登場とも見ることができる。
技術が向上し、それとともに飛躍的に伸びた能力もありつつも、ゼロからの創造的な能力が、その技術に追いついていないと言えるのではないか。
では、なぜ、そのような状況が現れたのか。
先ほど挙げた、技術の進歩、発表の場の拡大という点ではなく、別の視点から見てみよう。
MADムービーの多くは、一部の例外もあるものの、基本的に閲覧する者は、元ネタとなる作品なりを共通認識として持ち、共通認識された世界観を元に楽しむ。
また、逆に元ネタとなる作品を知らずにMADムービーを見たものには、その細かいネタ的な部分は理解できない。
しかし、理解はできないものの、その映像に写されているのは、ある意味でその作品を楽しむ者が共通項的に認識しているものであるから、元々の作品をそういう形で理解し、元ネタとなった作品を認識し、そちらに戻るという場合もある。
つまり、先のライトノベルとイラストの関係で述べた、イメージの共有化ということは、このような場においては、世界観の共有化という点として言えることで、イメージの共有化に特化した世代だからこそ、そのような制作物をより楽しめるようになり、かつ、それを制作するための能力も飛躍的に伸びたのであろうと言えよう。
共有化された作品のイメージを元に、それの演出を変えたり、編集したりすることにより、新たな作品を作りあげていくのである。
三
では、それらのものが、加速度的に発展していった理由は何であるのか。
それは、自身の発表した作品に対しての評価がさほど間をおかなくても現れるということが理由の一つとして挙げられよう。
つまり、Webの登場により、その発表と評価のレスポンスのタイムラグは短くなった。
この発表と評価のタイムラグがさほどないというのは、ここ最近の特異的な状況であろう。
例えば、一昔前ならば、一冊の書籍が発表されても、その評価が現れるまでは新聞であったり雑誌の書評欄であったりと、長短の差こそあれタイムラグがあった。
しかし、そのタイムラグは徐々に短くなってきていると言えるし、極端な場合には、発表から半日も経ずに、その評価が大量に現れる状態というのもありうる。
当然、評価する者がどういう者か、というのは考察の必要がある。
だが、その問題には対して、この場では、何かしらのアクションを自己表現の一つとして考えている者という簡単な提示のみにしておく。
自身の制作したものに対し評価が提示され、それを受け修正を行なったり、また別の作品を制作したりと、制作者側は自身の作品の長所と短所をポイント的に理解し、それを反映させていく。
習うより慣れろ、とはよく言ったもので、自身が学ぶべき明確なポイントを認識することができ、その技術を向上させることができるようになったと言える。
そういう意味では、これもまた、ニコニコ動画の存在というのは大きいと言えるだろう。
また、ここで忘れてならないのは、ニコニコ動画におけるコメント機能の存在である。
Youtubeなどの動画共有サイトにおいては、視聴者は、そこで自分の求める映像を捜し、それを視聴する。これはいわば、普通のテレビの存在に近いものである。
両者の違いは、テレビの場合、コンテンツは制作側が時間を決め配信しているが、動画共有サイトでは、コンテンツを選択するのはユーザー側であるという点である。
しかし、そのような動画共有サイトにおいて、他のものとニコニコ動画との一番の違いは、言うまでもなく先ほど挙げたコメント機能であろう。
ユーザーは、コンテンツを選択するだけでなく、そのコンテンツを視聴した後、もしくはその最中にコメントという形で、感想や評価を残すことが可能となった。
ここまで述べたことは、ある程度、この現象を認識した人間であれば、簡単にたどり着くことが可能であるが、あえて、このことを述べ、そのような一つの事実を確実に踏まえておきたい。
さて、このニコニコ動画におけるコメントであるが、一般的なユーザーのように感想や評価を残すだけではなく、そこに一つの自己表現を見出す者もいた。
それは、歌詞職人や字幕職人と呼ばれる者たちであり、文字という媒体を用い他人の作品に出現する。
これは、その作品の演出をユーザーが行う行為であり、彼らは文字という媒体を用いて作品を盛り上げる。
これも、先に挙げた演出、編集能力が向上した世代ゆえの現象ではないだろうか。
そういう意味では、文字における自己表現は、文章だけをその方法とするのではなく、別の形での表現方法として展開していったとも言える。
また、ライトノベルは基本的には、文章以外にイラストがともにパッケージングされ、一つの作品としてみなされるが、ニコニコ動画における作品の一部は、コメントも含めパッケージングされて一つの作品としてみなされる場合もある。
四
ここで、また違った側面からこれらのことをみるために、具体例として二つの製品を提示したい。
一つは、クリプトン社から発売された音声合成DTMソフトウェアの『初音ミク』である。
もう一つは、バンダイナムコゲームスからアーケード用に登場した『THE IDOLM@STER』(以下、アイマス)というゲームだ。
このアイマスは、簡単に言うならば、プレイヤーが新人プロデューサーとなり、新しいアイドルをプロデュースし、そのアイドルをトップアイドルへ育てていくという目的のゲームである。
初音ミク登場初期の頃は、既存の楽曲を初音ミクに歌わせるという形が多かった。それが時間の経過とともに、ユーザー自身が制作した楽曲を歌わせ、それを発表するという形も増えていった。
そして、その制作者は、作曲者等という呼称ではなく、プロデューサーと呼ばれることが多い。
アイマスでは、プレイヤーが新人プロデューサーとなり、アイドルの卵たちを育てていく。
これに対して、初音ミクは、元々は音楽用のソフトであったが、そこに「初音ミク」という架空のミュージシャンの存在を立ち上げ、ユーザーは初音ミクのプロデューサーとして、自身の作品を公開する。
すなわち、初音ミクで作品を発表する者はミクをプロデュースしていくという立場に身を置くことになり、これはある意味でアイマスと同じような状態であると言えよう。
もちろん、初音ミクのヒットにはニコニコ動画の存在が非常に大きな役割を果たしていることは言うまでもないことである。
同様に、アイマスのゲームとしてのヒットと同時期、もしくはそれ以降、アイマス未プレイの人間でもそれを認知している状況に対しては、これもまたニコニコ動画の存在が大きいと言える。
このように、ニコニコ動画は、先ほどのMADムービーの事例のように、受容、表現といった様々な面での変化のキーとなった。
さて、ここで忘れていけないのは、初音ミクのヒットの理由の一つには、そのイラストがあったことであろう。
この初音ミクのシリーズは、初音ミク以前にも同じような製品が発売されている。
もちろん、ミクのヒットは使用している声の元データがプロの声優であり、それを前面に押し出すという売り方をしたということもあるが、それと同時に、それまでの製品とはイラストのタッチを変えて売り出したことも大きな要因となった。
このイラストによるヒットも、アイマスに通ずる部分であろう。
アイマスと初音ミクのヒットというのは、完全一致とは言わないまでも、そこには近似性があると言える。
発展の際の経過の違いや、そもそもの目的においての違いはあるものの、結果として落ち着いたのは同じ場であったと言える。
そして、これもまた、共にユーザーのイメージの共有化ゆえのことであり、それが、演出、編集という行為から、トータル的にプロデュースしていくという、より大きな範囲にまで及ぶことになったと言えるのではないだろうか。
五
いわゆるメディアミックスという言葉は、一つのメディア、例えば、小説というものが、漫画やアニメといった他のメディアとして発表される場合に用いられる。
しかし、この現象は、メディアミックスとは違う。
あえて言葉をつけるなら、エレメントミックスとでも呼ぶべきであろうか。
文字を基本とした表現は、イラストや音楽、映像といった他の要素を加えることによって、一つの制作物として世に出される。
文字という表現媒体が、他のものに代替させることのできるものではなく、しかしながら、その文字を使用し、表現する方法がいろいろと増えてきているといえる。そして、その組み合わせも多様化していく。
中盤でも述べたが、現状としては、純粋な創作物というよりも、既存のものをパロディ的に使用された二次創作物の方が多いと言える。
しかし、それはあくまで過渡期であるがゆえの状況であり、この流れがどのように発展していくのは非常に興味深い問題である。
もちろん、厳密に言うならば、既存のものをベースとしていくというのは、著作権法的には、違反するものが大半である。しかし、技術を習得していくために、そういうものが必要不可欠な現状でもあるといえる。
演出や編集をするためには、脚本等の根幹が必要となるのだからだ。
また、角川書店のハルヒ関連等のMADに対する歩み寄りのように、それを格好の宣伝材料として、逆に利用する企業も出現し、これまでの著作権に関するいたちごっこからは、また違った展開も見せ始めており、そういう意味では、法を犯さない形で、これまでのような活動が可能になったということは、確実に転換点となったであろう。
現状としては、その根幹のものを、他者から借用するケースが多いが、それを今後、どのように制作者自身が創りあげていき、そして、それまでに習得した技術とあわせていくのか。
また、そのような展開をしていけば、作品の流通的な変化による問題というのはいずれ顕在化していくものであり、その後、それで利益を求めていく者たちが、どのようにそれに順応していくか、もしくは、どのように、それを活用していくかが課題としては現れることであろう。
それらの問題をクリアしたときに、これまでの既存の作品にとらわれない、次世代の創り手による作品群が登場するのではないかと考えることは想像に難くないのではないか。
終
さて、これまでいくつかの事例を挙げ、若干の飛躍はあったものの、物語とイラストの関係性を根幹に据えて、それらの変遷を見てきた。
基本的には、現在の物語とイラストとの関係において様々な効果はあるものの、イメージの共有化という役割を果たしているというところに落ち着きたい。
そして、メディアミックスされる作品の氾濫によって、イメージの共有化的な部分に重きが置かれるようになった。
そう考えると、それらの作品群が、前半で挙げたミステリの例のように、その作品に必要不可欠な要素として、イラストが文章と綿密に結びついているのかというと、作品の創作に対して、そのイラストが存在しているというよりも、それとは別の理由でイラストの存在があるといっても言い過ぎではないだろう。
つまり、創作に対するイラストというより、展開のためのイラストと簡単に言い換えることが可能だ。
そういう意味では、「ファウスト」の登場の際の謳い文句となった「イラストーリー」という概念は、その流れを創作側に向けた考え方であり、それを明確に提示したという功績があるとは言える。
しかし、その概念を体現し、その代表格と呼ばれるような作品が実際に登場したかとういうと、それには少し首を傾げざるを得ない。
イラスト、文章ともに、それぞれが既存のライトノベルの作品群とさほど差がないか、それが少しだけ違った方向に伸びた程度であり、それらの有機的な結びつきというまでは、まだ到達していないように感じてしまう。
しかし、これは再三述べたように途上であるがゆえであり、今後、それがどのように展開、発展していくのかというのは非常に興味深いことである。
そして、少なくとも、講談社BOXというレーベルや「パンドラ」も含め、「ファウスト」が「イラストーリー」という概念を提唱した以上、それらの場において、次世代の作品群が登場するという可能性を期待したいところでもあり、それと同時に、そのような作品を発掘、登場させる責任もあると考える。
今後、既存の枠に囚われない、どのような形式の作品が登場するか。
今は、ちょうどその過渡期であり、今後も、いろいろなエレメントミックスされた作品群が登場し、その特徴を体現する創作物が出現することに期待したい。
書評
物語とイラストの関係を、新聞小説における挿絵を一つの起点とし、ライトノベルにおけるイラストをその経過点と位置付け、その変遷を辿るというのが、著者が本書において、展開していく論のそもそもの出発点である。
その変遷を辿る中で、ニコニコ動画におけるMADムービーや初音ミク等を取り上げ、物語とイラストの関係から、受容する側と制作する側の変化を論じている。
そして、著者は、現在のそのような場における創作は創作ではなく、演出、編集の能力が長けた者達が制作した制作物でしかないと述べる。その上で、創作ではないと言いつつも、この現状も過渡期ゆえのことであり、それらをさらに発展させ、著者の提唱する「エレメントミックス」された作品群が今後登場するであろうということと同時に、そのような作品の登場を期待すると結論付けている。
若干、結論において論じているというよりは、意思表明をしているような部分があるようにも感じるが、それはさておき、本書に書かれている内容のいくつかは、同じ問題意識を持っているものならば、多少の差異はあっても、近しいような考えを抱いているものである。
また、ニコニコ動画や初音ミク、もしくはMADムービーの話題など、本書を読んでいると、いまさら感の漂う内容もある。
しかし、それを文章として一冊の書籍という形に残るものとしてまとめたという点は評価に値することだろう。
いずれ誰かが行なわなければならないことであり、それを今、著者が行なったということになる。
また、論の出発点から考えれば、著者自身、結論部で自覚しているように、少々論の方向がずれ、飛躍したようなきらいもあるが、作品を受容しそれを別の形で表現する者たちについての能力が演出、編集能力に長けていること、そして、それにより創作の形が変化していったことに結び付けて分析している点は興味深い。
また、著者の提唱した「エレメントミックス」という言葉は、据わりの悪さや、海水用品で同名の商品が存在したりと、いささかの違和感があるものの、それをメディアミックと重なる形での、現状を表すと言葉として提示した点も興味深い。
しかし、先も述べたように、この言葉は据わりが悪い。
「エレメント」が要素という意味合いで使用していると考えれば、私ならば「ファクターミックス」とでも名づけようか。
さて、いくつか興味深く、かつ評価できる点もあるのだが、指摘しておきたい部分もある。
まず、変化の原因としての受容や環境の問題を提示するために、物語とイラストの関係の分析を始点としておくのであるのならば、もう少し構成を編成しなおし、論の道筋が明快になるようにした方がより良かったであろう。
私は過去に、著者の書いた探偵小説に関する論文を読んだことがあるが、それも時代の変化という時間軸を主軸とし、そして、論じる対象と対比できるものを提示し、共通点と相違点を示して、そこから展開させていく構成をとっていた。
本書もまた変わらず、それに近い構成であり、おそらく著者が何かを論じるにあたり、もっとも論じやすいスタイルなのであろう。
果たして、本論においてこのスタイルが適していたかどうかは、あえて語らないが、少なくとも、このスタイルを用いるのであれ、用いないのであれ、この論の構成と展開の仕方では、いささか論旨が掴みづらくなっていることは、一応指摘しておこう。
物語とイラストの関係性を論じたいのか、それとも、その変化に伴う周辺の変化を論じたいのか、読み進める間、はっきり掴み取ることができず、結論において、突然最初に提起した問題に戻ってきたという印象が強い。
前者ならば、ニコニコ動画に関係する話題の必然性が薄れ、後者であるのならば、物語とイラストとの関係性を論じる対象として、新聞小説やミステリを提示した必然性が薄れていく。
この辺りの不明瞭さが、本書を分かりづらくしている大きな原因である。
そう考えると、著者は論の中で、演出、編集能力の優れた世代の登場と述べていたが、著者自身は、その世代ではなく、前世代の人間であるということになり、論の内容と著書にちぐはぐな感じを抱いてしまう。
さらに、本書において大きな問題点が二つほどある。
まず、一つ目の問題点は、絵本の存在をどのように解釈していくのかということが省かれていることである。
物語とイラストの関係を、新聞小説、ミステリ、ライトノベルの事例を挙げ論じているが、物語とイラストと言えば、まっさきに浮かぶべきは絵本の存在ではないのか。
このことに触れずに論じるのは片手落ち、もしくは脇が甘いと言える。
絵本が一般的な階層までに普及し始めたのは、「印刷技術の向上による複製が簡易になった時代」からであり、その意味では新聞小説と挿絵との関係が始まったのとほぼ同時期であると言える。
本書において、新聞小説を扱いつつも、それと同時期である絵本については一切触れていないというのは、論証としては甘い。
その上で、絵本という存在を考え、著者の意図を汲み取れば、絵本はイメージの共有化がなされているのではないかと私は考える。
それとも、絵本には著者の言うイメージの共有化という点は働いていなかったのだろうか。
もし、絵本においてもそのイメージの共有化なるものがあったのならば、物語とイラストとの関係性の変化というのは、ライトノベルの登場よりも以前、むしろ、新聞小説と挿絵の関係性ができたのと同時期にすでに存在していたことになり、それは変化でなく、ただたんにその関係性が、ライトノベルによって顕著になったとしか言えまい。
もし、絵本はイメージ化の訓練としての子どものための素材であり、それゆえイメージの共有化はなされていないと言うのならば、ポール・ギャリコの『雪のひとひら』のように大人のための絵本という評価もある作品の場合はどのように扱うのか、もしくは、メディアミックスされた『あらしのよるに』のような作品をどう捉えるのか、といくつかの事例を挙げて反論したい。
大人のための絵本という評価がされている作品に対し、読者が子どもではない以上、イメージ化の訓練などという言い訳は通用せず、そのような作品において読者はイメージの共有化を行なえる、もしくは行なっているのではないか、また、メディアミックスされた作品も、著者がライトノベルについて論じた内容とどのように違うのか、この辺りの論考が抜けていることは、本書にとって致命的なことであるのは言うまでもない。
本書のもう一つの問題点は、論の内容には直接関係のないところではあるが、刊行のタイミングであろう。
もし、本書の刊行が一月遅れていたのならば、著者にとっては間抜けとしか言いようのない状態になっていただろうし、本書の意味は半減していた。
本書は、講談社BOXの一冊として刊行されたわけであるが、本書と、同時に刊行されたゆずはらとしゆき/toi8の『空想東京百景』は、著者が述べた次世代の作品の一つということになる可能性を含んでいるからだ。
『空想東京百景』は、小説、漫画、絵物語、そして、註釈や年表までを含め、一つの作品としてまとめられている。
この作品は、文章だけではなく、イラストは当然のこと、物語的な意味合いを帯びないであろう註釈や年表と言った要素までも含まれているのである。
これこそ、著者の提唱した「エレメントミックス」を、体現した作品であると言えるのではないだろうか。
その意味では、著者は、講談社BOXを含むその周辺の者達に対して責任を、と述べているが、すでに責任を取ったことになる。
それとも、この作品をまだ過渡期の作品であると述べるのであれば、著者が何を求めているのか、そして「エレメントミックス」なる言葉にどのような意味合いを含ませているのか、それを本書にもっと具体的に示すべきであったろうし、もし説明の機会と場があるのならば『空想東京百景』がそうではないという理由をも明確に示してもらいたい。
少なくとも、著者の論旨を素直に汲み取るならば、この作品は、その提起した内容を具現化していると私はみる。
そのような内容の作品が、それを論じた書籍と同レーベルから、しかも同時に刊行されたというのは皮肉としか言いようがない。
著者は、インターネットの普及や、ニコニコ動画を引き合いに出し、作品とその評価に生じるタイムラグが短縮されたということを述べているが、『空想東京百景』の登場は、それと逆で、批評・評論で提唱された問題が、すでに実作品として現れてしまったことになる。
創作とそれに対する評価のタイムラグは埋められつつあるのかもしれないが、批評・評論と実作品の間に存在するタイムラグは未だに埋められることなく、むしろ、そのことを著者自身が身をもって示してしまったといえるだろう。
以前、本誌で行なわれていた「現代小説・演習」という、評論家が方法の提案をし、それを承けて、小説家が実作を示すという企画があったが、まるで、それをみているような気分になる。だが、そちらは評論家と小説家の共同作業となる企画であって、こちらはそのような企画ではない。
この点に関して、同じような立場にある人間としては、著者に若干の同情を覚えてしまうが、残念ながらこれが現実である。
漠然と皆が考えていることを著したこと、それを踏まえた上での分析など、いくつか評価できる点もあったが、本書の一番の功績は、論じる側も立ち止まらずに冷静に現状を分析し、その上で常に先を見ていかなければならないという教訓を、身をもって示してくれたことに他なるまい。
ところで、著者は本書において一切の思想や文学理論的なタームを一切用いていない。
私は、必ずしもそのようなタームが必要であると述べるつもりはない。
必要がないのならば使うことはないし、使用することにより、論旨が明確になるのであれば、その時は使えば良いだけのことである。
しかし、タームの使用を徹底的に排除しているにもかかわらず、いくつかの箇所で文学理論を匂わせる言葉を使用している。
おそらく、本人は遊び心のつもりなのか、もしくは、自身の立ち位置を暗に示したいだけなのであろう。
もし、何もわからずに書いた偶然の産物であるのならば、それは著者の無知をさらすだけであり、「エレメントミックス」などという言葉を提唱する前に、すでにあるタームを学ぶべきであるとしか言いようがないが、わかっていてやっているものだと、好意的に解釈しておこう。
だが、好意的に解釈したところで、この趣向には苦言を呈さずにはいられない。
徹底的な排除を行なうのならば徹底的に、自身の立ち位置を示したいのならば、それを明確に示せば良いのである。
そのどちらも行なわないというのは、あらかじめ自分自身で逃げ道を準備しているだけの行動にしか見えない。
遊び心だったとして、それ自体は悪いこととは言わないが、遊び心だったとしても、この中途半端にしか思えない行為は、明らかに本書の評価を下げるものであるとしか言えない。
真剣に論じるのであれば、このような面においても真剣になっていただきたい、そうでなければ、読者も真剣になれないということを自覚すべきだということを最後に記しておこう。
『群像』