
かつて、日本車、特にスポーティカーの馬力競争が激化した時代があった。150馬力、200馬力、ついには250馬力といった数字が広告に躍るようになった。それは当然、「エンジンの出力が高ければ高いほど速い車だ」と思われていたからだ。
しかしこれは間違った信仰である。
エンジンの回転力を表す単位は「トルク」で、これは回転数によって変わる。低回転から高回転まで、トルクが極端に変わらないエンジンほど扱いやすく、「フラットな特性」などと言われる。
一方、馬力というのは「トルク×回転数」で表される。回転数をかけるわけだから、高回転時に高トルクなエンジンほど最高出力の数値は大きくなる。ただし、高回転時に高トルクになるように設計すると、低回転時のトルクを犠牲にするため、出足の悪い、ぎくしゃくした使いづらいエンジンになる。
例えば、最高出力140PS/6000rpmとあれば、エンジンが6000回転のときに出力が最高となり、その数値が140馬力であるという意味だ。しかし、実際の公道上で6000回転などという回転数までエンジンを回すことはありえない。ありえない状況での出力数値には、なんの価値もない。
7年前、10万キロ以上乗った国産のスポーティカーから、欧州車に乗り換えた。エンジンの排気量は同じだが、最高出力は25馬力下がった。しかし、この欧州車はそれまでの車より格段に「速かった」。加速が段違いによいし、坂道でへたることもない。フラットなトルク特性のおかげである。あまりの運転のしやすさに、感激を通り越して哀しくなったものだ。今までの車はなんだったのだ、と。
これと同じことが、今、デジタルカメラの世界で起こっている。
小さな撮像素子(CCDまたはCMOS)に、無理矢理1000万画素という解像度を持たせる。その結果、1画素あたりの受光量が減り、色の階調が浅くなったり、ノイズが増えたりといったマイナス要因を抱えることになる。半分の500万画素で設計すれば、これらの欠点は大幅に改善されるはずだが、そうしたCCDが開発・製造されることはない。ユーザー側に、「高画素=きれいな画像」という間違った認識を持たせることに成功したため、メーカーは画素数至上主義で突っ走る。高画素を謳わないと売れない、という、悪夢の法則ができあがってしまったのだ。
公道上でエンジンを6000回転になど上げられないのと同じで、一般の利用方法で1000万画素という解像度が必要になることはまずない。葉書大に印刷することを前提にすれば、200万画素程度で十分なのだ。メーカーも、そんなことは百も承知だ。
例えば、某社のデジカメの最上位機種(実売価格8万円台)は約600万画素である。一方、同社の売れ筋小型デジカメ(実売2万円前後)は約1000万画素であり、撮像素子面積は最高機種より小さい。カメラをよく知るハイアマチュアに対しては、すでに高画素では騙せないと判断していることがよく分かる。
しかし、一般には低価格の売れ筋モデルほど高画素を謳わないと売れないので、不毛な高画素設計を続けている。その結果、ユーザーは、本来作れるはずの「きれいな写り」のカメラを手にすることができない。これはユーザーにとっても技術者にとっても悲劇だ。
現代は情報化社会と言われるが、ある意図を持って強力に発信された情報は、徹底的に人々を洗脳しつくす。焼却炉からダイオキシンが出ているという騒動や、CO
2温暖化元凶説などはその典型だが、一度間違って認識されてしまうと、なかなか訂正されない。
デジカメの世界の「嘘」などは、べつに人類の存亡に関係するような大問題ではないが、こうした嘘が放置されている世の中というのは、どうにも居心地が悪い。嘘だらけの暗い時代だからこそ、写真くらいは、騙されることなく、自由に楽しみたいではないか。
デジカメが登場してから、私の写真趣味は一気に花開いた。何枚撮っても「ただ」なのだ。こんなすばらしいことはない。
しかし、デジカメの魅力を堪能するにつけ、周囲の多くの人が、デジカメ本来の魅力を半分も楽しめていないことに気がついた。デジカメメーカーが、高画素化競争という、おかしな方向に突き進んでいくのも気になった。
黙っていられない性格ゆえ、またまた本音で本を書いた。
『デジカメに1000万画素はいらない』(講談社現代新書)――ちょっと過激に見えるタイトルの本だが、あたりまえのことを率直に書いた結果、こうなったのである。難しい話ではない。「見る」だけでも楽しんでいただけるように、実例写真をすべてカラーで収録するということにもこだわった。
デジカメの世界の嘘や迷信を面白く読み解くうちに、いい写真も撮れるようになる。
そんな本であると、自負している。
(たくき・よしみつ 文筆業)