
台湾を舞台にした長編小説『あまりに野蛮な』がようやく本の形になり、うれしいやら、うらさびしいやら、という思いになっている。この小説を書きたいと漠然と願うようになってから、早くも十年近く経っていて、それだけの年数を台湾に寄り添いつつ生きてきたと言えるから、すっかり情が移り、台湾で作られた映画を見るだけでも、胸がキュンとなったりする始末で、すぐにでもまた、台湾に飛んでいきたくなる。
台湾を私はまるで知らずにいた。なんのご縁もなかったし、とくべつな関心もなかった。侯孝賢監督の映画『悲情城市』を見て、戦後すぐの台湾社会はこんなに大変な状況だったんだと知らされ、と同時に、このような映画が作られ、堂々と公開することも許される社会に、今は大きく変化しているのか、と深い感慨も持った。にもかかわらず、まだ台湾のことはよそごとだった。
台湾というところは、存在そのものがはっきりと定義しにくい、歴史的にも不運な島で、現在もアメリカと大陸中国との微妙な緊張関係のなかで、日本も含め、大国との対立を避けたい多くの国から一国として認められていない。けれど経済的な存在感は大きく、文化的にも大陸とはまったくちがう場所となっている。最近の北京オリンピックでは、苦肉の策として「チャイニーズ・タイペイ」なる「国名」で、台湾は参加していた。
台湾内でも、昔から住む福建系の漢族(本省人)と、戦後、大陸から逃げ延びてきた国民党系の漢族(外省人)、それに客家(ハッカ)系のひとたち、ポリネシア系、あるいは大陸の少数民族の流れを汲む、漢族よりも古くから台湾に住みついていた原住民(台湾での正式呼称)十二族が住みわけていて、驚くほど、複雑な社会事情になっている。それは言語の複雑さでもある。そのため、私は大いに悩まされることになったのだけれども。
戦後の台湾は、国民党によってもたらされた北京語を国語として使うようになってはいるものの、もとからの

南(びんなん)語は南部を中心に生きつづけているし、植民地時代の日本語もまだ人々の記憶に残されている。たとえば植物の名前にしても、現在の台湾の書店で売られている植物図鑑は北京語、つまり戦後、新しく外省人によって設定された名前で記されていて、本省人が以前から呼んでいた名前がわからない(図鑑によって書き添えてあることもあるが)。まして植民地時代の日本人が勝手に呼び習わしていた名前など、さっぱりわからなくなっている。さらに原住民がつけた名前もまたちがってくる。原住民とひとくちに言っても、それぞれ言語習慣がちがう。
そんな台湾をなぜ小説の舞台にしたいと願ったのか、と言えば、そこが最初に旧日本帝国が支配した「植民地」だったからであり、原住民の存在ゆえに、多くの人類学者が台湾に渡り、熱心に調査した地でもあるからだった。日本のアイヌ研究も同じ発想だったらしいが、「近代文明路線」に成功したと自認したい日本にとって、台湾の原住民研究も近代文明の優越性を確認できる、とても魅力的な手段として認識されていたようなのだ。もちろん、そのとき、「文明人」であるからこその大切な研究、ということになる。
日本による台湾統治のはじめのころは、かなり血なまぐさい衝突がつづき、植民地支配についても手探りの状態だったらしい。やがてマラリアやツツガムシなどの風土病対策、原住民対策など、着々と「成功」し、自信をつけた日本は、朝鮮半島、中国東北地方へと、同じ手法で植民地支配をひろげていった。そんなことが、台湾のたどってきた時間から見えてくる。
それにしても戦後生まれの私には、「植民地」という状態そのものが実感しにくかった。私の母の世代まで実際に経験していた状態なのに、「植民地」という言葉すら身近で聞いたことがなかった。耳に入るのは「外地」という言葉だけ。ノスタルジーの漂う「植民地」文学はもちろん、多く書かれている。旧満州について書かれたものがいちばん多いのかもしれない。旧満州は朝鮮半島や台湾とちがって、建前として「植民地」ではないとされていたから、日本人にとってなんとなくちがう意識があり、そのぶん、戦後になってからも書きやすかったのかもしれない。「引き揚げ」の話も耳にたこができるほど聞かされてはいたが、「植民地」が一般の日本人にどんな感覚で受けとめられていたのか、という私の疑問に応えてくれる文章に出会うことはなかった。
小学生のころ、教師が黒板に日本地図をひろげ、棒でなにげなく中国から太平洋に至るまでの広い範囲をまるくなぞって、戦争の前の日本はこんなに広かったのですが、今はたったこれだけになりました、と今度は同じ棒で現在の日本列島をぐるりと囲んで見せた、その場面を忘れられずにいる。そのときも「植民地」という言葉は使われなかった。子どもの私たちには、まるで大きな自然災害でも起きたかのような印象しか残されなかったのだ。
そのようにして、敗戦後の日本国内では回避されつづけてきた「植民地」という言葉。言葉を消してしまえば、植民地支配の事実も記憶から消え失せていく。でも思いがけない形で、その記憶は刻み残されている。
あるうわさ話を聞き知ったとき、そう気がつかされた。国益のため、それとも私益のため、異文化の世界を一方的に「野蛮」だとして、自分たちの文化で押さえつけようとする状態、それは今現在もつづいていることではなかったか、と。
台北で日本の大企業に勤める駐在員の妻たち三人が、そのうちの一人の住まいに集まり、午後のお茶を楽しんでいた。台北でも高級な住宅街にある、快適なマンションの一室。そこにとつぜん、野蛮な台湾人の男たちが乱入してきた。その手には、ぎらぎらとひかる長い刀。のどかな午後のお茶の時間はたちまち、悲鳴と流血のおぞましい場面に変わった。日本人の妻ひとりは殺され、もうひとりは輪姦されて首を吊り、最後のひとりは発狂した。こんなおそろしい事件は、対外関係も悪化させかねないので、公表されないことになった、とのおまけつきのうわさ話。
なんという野蛮なうわさ話がまことしやかに、今の日本でも流れつづけているのだろう、とその事実に、私はショックを受けずにいられなかった。ここには植民地時代に起きた、台湾の山に住む一部の原住民による蜂起「霧社事件」で、日本人が多数殺傷されたという遠い記憶が働いている。そして当時の日本人の恐怖感が、現在の日本企業駐在員の家族が抱く恐怖感と重なり合ってしまっているのだ。それは、日本の女が現地の男によって、性的に陵辱されるのではないか、という恐怖のパターンとなっている。
戦争というと、むかしから、倒した敵の女性を兵士がレイプするという行為がつづいてきた。「難民」の深刻な被害としても、世界中どこでも、レイプは真っ先にあげられる。兵士のための「慰安婦」の問題もある。「植民地」という状態もどうやら宗主国側にとって、性的な強迫観念と深く結びついているらしい。そして現代では、商社の駐在員の意識にも。
そう思い至り、はじめて私は台湾を舞台にした小説『あまりに野蛮な』を書きたい、とはっきり願いはじめたのだった。
タイトルでもわかるように、この小説で「野蛮」の意味を私なりに考えたかった。「植民地」という状態の野蛮。文明と対比される野蛮。国家という野蛮。人間の性が備え持つ野蛮。恋愛や結婚にともなう野蛮。
実際、人間という存在そのものが、「野蛮」を抜きにしては考えられない。この小説を書き終えてから、ますます人間の持つ「野蛮」の意味が、私には重く感じられるようになっている。
(つしま・ゆうこ 作家)